平和な気持ちになれる歌。「大地」のにおいがする声。
神秘を訴えないのに、その向こう側に「見えないチカラ」を感じてしまう声。かっこつけてないのが、いいよねぇ。力んでないし、すましてない。
「ジャケ買い」ってことば、まだ生きてるのかな?
昔ジャケ買いして、知ったハンバートハンバート。
この「おなじ話」はちょっとふしぎな歌詞で。
聴くひとによって登場人物が変わる。
こういう聴き手に「余白」を与えるって、名作の条件なんだね。
聴き手、鑑賞者、受け取り手に「自由な解釈」をゆるす、ってのは、すごいなぁ、って思うの。それが人生を注ぐ大切なものであればなおさら。
ゆるす、ってことは「聴(ゆる)す」ってこと。
語り手でありながら、聴き手でもある。
私はホロスコープを通してコトバを贈ることにヨロコビを見出しているんだが、「聴き手」としてコトバをつづれているだろうか、と自問する。
ブログも。
なんとか「できるだけ正確に」伝えようと思うと、言葉足らずになるしかない。だって、言葉で全部表現するなんて不可能。そんでもって同じ景色を同じフレームでコピーするのも、無理。
もちろんできる限りの努力はするけど、カンペキにわかってもらうことはデキナイ、と諦めないと。あきらめるって言うと、放り出すみたいだけど、それともちょっと違う。
それも含めて「余白」に組み込む度量さ。
私も、贈り手であると同時に、聴き手でありたい。
すべてを「聴(ゆる)す」コトバの使い手になりたい。
「全託の祈り」手でありたい。
「分かんなくてもいいけど、とにかく、わたしたちは、聴いてる人に自分たちの歌を届けようとは思ってないわけ。
ましてやメッセージを押し付けようとも思わないし。
絵描きの絵とかも一緒じゃない?
テーマとか意味とか質問するのに意味はないのよ。
かといって伝えたいことがないわけじゃなくてね。
隕石としか言いようがないけど。
わたしたちの歌は、空からでっかい意志を運んでくるわけ。
聴いてる人の胸にその隕石をぶつけるの」
「全託の祈り」を生きたいなぁ。
祈りを生きる、なんて言うと聖職者のようなイメージがあるかもしれないけど、まるで逆だで。 最近言ってる、「非生産的な活動に全力を注ぐ人生にする」ってのはまさにそれだと思うんだ。
まぁ昔から「私って、結構クズですよ」って言ってたけども。それをもっと美意識をもってクズを生きよう、と(笑)クズの美学。
まだまだ、中途半端なクズ。
クズ・オン・ザ・ウェイ。
うぇいうぇい~!