いや〜、ワロタ、ワロタ(笑)
もう…背筋褒め称える言葉で「御神木だね!!!」のくだりとか爆笑さ。
哲学と筋肉礼拝を交互に楽しむ狂気。
さ・・・最高だねッッ!!!
ソクラテス(の弁明、の西研せんせの考察)はとっても「木星」エナジーに満ちたものでした。「よきもの」「価値あるもの」ってなんなのか。
見る人、立場、時と場合によって「善」は変化するんだよ・・・で、終わらせない。そこで終わらせないのがソクラテス。じゃあその変化した全ての「善」に共通する要素(徳)はなんなんだい?アナタはそこから何を見出すんだい?
変容した先にある、「共通項」を遠く遠くはるか先に見出そうとする姿勢。それが9ハウス、哲学。蠍座を超えた向こうにある射手座。性善説的ともいえる、木星の楽観性。
寛容だからこそ、探求できる。
でかい・・・でかいぜ、木星!!!
「クリスマスツリーというか屋久杉レベル。もう、ご神木!!」
(スタバで思い出し笑いしながら書いてるナウ)
これを今しがた読み終わって、「教育」パッションに胸熱なワタシ。9ハウスは、学び、高等教育。西洋で言うリベラルアーツ(教養)、東洋の六芸(礼・楽・御・射・書・数)なのです。
私たちの学びへの意欲がもっとも亢進するのは、これから学ぶことへの意味や価値がよくわからないけれども、それにもかかわらず何かに強く惹きつけられる状況においてです。
東洋の六芸(礼・楽・御・射・書・数)が「存在しないもの(目に見えない世界に存在するもの)」に応じる(&働きかける)技術であるように、学びの本質は「ここからは遠いところ、手の届かない世界」にある。
対向する3ハウスは身近な学び、実用的な情報のやりとり、コミュニケーション。
ワタシは3ハウス的な「分かりやすくてすぐ役に立つ情報」を提供するよりは「なんかよくわからないけど・・・オモシロイ!!!」と惹かれる学びのプロセスを共有したいわけ。
だから、「わかりにくくてもイイヤ」とは思ってないし、「どうだ、むずかしいだろう」って鼻の孔ふくらますだけなのはひじょーにカッコワルイと思ってるから、一生懸命できるかぎり分かりやすく伝えられるようにベンキョーはしてるところ。
(まだまだ勉強不足で、堪忍ね)
マーケットのニーズにこたえるだとか、ターゲット層をしぼりこんでメリットやリターンを提示するとか、そういうのんはしたくないの。(だって私の人生は非生産的な活動のためにあるのですから)
私は「人生とか生命力とか、根源的な部分で必要不可欠なモノ」だと信じているから提供するわけだけど、これを学べばこれこれこういうメリットやお得な効果がありますよ、とは言えないの。
そんな言葉の枠にはめちゃうとチープなもんになっちゃうし、可能性を狭めてしまう気がするから。
最初は 無償の贈与から始まる。教わりたいという人がいなくても、「私にはぜひ教えたいことがある」という人が勝手に教え始める。
教育はニーズから始まるんじゃない。おせっかいから始まるんだ、って考え方がすごく好きなのです。まず旗印をあげる。
教育に限らず、社会のナチュラルな「つながりかた」ってそうだと思うよ。今は忘れられつつあるけど、ニンゲンらしい健康的な関係性のバランスのとりかた、生き方は、「成熟したGiver(=オトナ)」がつくっている。
子どもの視点ってのは I should(~しなければならない)とI'd like to(~したい)なんだ、ってハナシ。でね、オトナは違うの。I can(~できる)と、呼びかけに応えるのがオトナなんだ。
太陽の主体性は、社会とのかかわりの中に自分の立ち位置を自分から主張しているってこと。社会や他者に何か足りないものや欠けている部分があって、そこに応答する。
最初からその役割が出来ていなくてもいい。その場に応じて、役割を演じることから始まる。結果的にその役割の中で葛藤を経て、成熟してオトナになる。
太陽の照準を設定して(5ハウス)、役割の中で自分をすり合わせて(6ハウス)、ようようやっと地上に芽を出す(7ハウス)ってこと。
教育について話すと学校の先生とか講師とかそういうポジションのハナシに限定して捉えられがちだけど、オトナはみな「成熟した提供者=教育者=贈り手」として社会に参加してる。させてもらっている、というか、すべき、というか。
ワタシはクズのニートではあるけども、卑屈で幼稚なクズではなく美学を持ったクズでいたいわけで、「成熟したオトナ」という遥か遠い目標のために日々楽しく生きてます。(笑)
と、内田樹せんせはこの「提供者」が受け入れるべきリスクにもビシッとコメントしてるのですが、それがもうジンジンきます。しびれます。(ニノニノ~♡♡♡あなたの二の腕に夢中 - STAR SHIP☆星読み航海図)
誰も「教えてください」と言ってこないけれど、こちらが「教えたい」と言って始めた以上、教える人間はこのリスクを引き受けなければいけない。
旗印を掲げるということは、「選ばれないリスク」を引き受けるということなんです。「みなさん来てください」という学校は「旗を掲げていない」ということです。旗を掲げるということは、この旗に呼応する人だけ来てくださいということ
教える側は境界線のこちら側にじっと待って、生徒の側が、自己責任で、自己決定で、境界線を超えて踏み込んで来なければならない
どれだけアツイ想いで「教えたい」と願っても、学ぶ決断だけは、肩代わりできない。
「教える」コンテンツに限らず、誰かに働きかけるってそういうこと。贈り物をして、それを受け取るかどうか決定権は相手にある。それを活用できるかどうかも。
コトバのやりとり、コミュニケーションもね。
もちろん発信者側の配慮は必要。でも受け取った人の「解釈」とそこから派生する「感情」に責任を持てるのは相手なわけで。その境界線をごっちゃにすると、人間関係はかなりシンドイものになる。
その境界線をうまくひいてコミュニケーションを「豊かに」「平和に」しようって手法がNVCなのかな。
私の★旗印★
7月28日㈬の星の読書会でしょう!!
【星の読書会】はこういう目論見でスタートした私の個人的なプロジェクト。
世界への信頼感を取り戻して、自分の生命力を自覚する。
鎮魂(タマシズメ)であり魂振(タマフリ)である「全託の祈り」。
別にカウンセリングでもなんでもない、ただの読書会だから。直接的にそういう「霊的な」働きかけがあるわけでもなんでもないんだけど。間接的に、そうなる。その場でそう思えなくても、そうなる。
私がそう設定してるんだから、そうなる。
ムツカシイこと考えずに、単純にお喋り楽しむだけなんだけどね(笑)
コミュニケーション下手の、雑談下手のワタシでも、人見知りのアナタでも、「読書会」という共通のお題があればちょっと喋りやすいんじゃない?という下心。
黙っててもいいし、うひゃうひゃ笑ってもいいし、熱く語りだしてもいい。オールOKウェルカムなのです。