付箋アプリに放り込んだメモを整理。
鼻の頭がかゆくなる
英会話レッスンとか、イベントとか、ZOOMで話してると鼻がムズムズすることが多い。鼻の頭ぽりぽりしてたら段々赤くなってくるし、なんか鼻ほじりながら聞いてるみたいだし(コイツならやりかねないと思われていそうだ)、参ったな。
鼻の頭ってのは、自尊心を表す位置ですな。
マンガでも鼻の下を指でスンッてするポーズといえば「へへへ」って照れ笑いするとき。ぽりぽりするシーンは、戸惑ったり恥ずかしがってるときってのがセオリー。
ピノキオは嘘をついて花が伸びたけど、日本語で鼻高々ってのは自慢げな気分のこと。自尊心が度を超えたヤツを「天狗」って言うのは、鼻がにょーんって高くなっているイメージから。
そういえば先週図書館から借りてた絵本。
天狗にもらった不思議な扇、鼻の高さを自由自在に操れるっちゅう「何に使うんだ」アイテムを、見事使いこなして「成功者」となった男の話。成功で終わらんところがこの昔話のオチなんだけど。
にょっきと生えた鼻がキノコに間違えられてBBQの串(?)でサクッと刺されるシーンにめっちゃウケた(笑)
さてさて、無意識に鼻を触るときや鼻がシンボルに現れるときってのは、自慢気なとき、照れ隠し、気恥ずかしさを感じたとき。自分がどう見られているかを意識した時って共通点があるかな。
「ワタシ」を指すとき、大抵は顔、顔の中心を指さす。いや、アゴを一本指で押さえる女子もいるけど、あれはアゴを下げて上目遣いにする作戦だから「アゴ」に注意を持っていこうとしているわけじゃない。たぶん。
もしアゴを指してワタシというんなら、アゴをもうちょっと前に突き出すはずだ。
あと、「ワタシは脳の電気信号に過ぎない」とうそぶく唯脳論者たちでも、ワタシをさすときに脳があるあたり、額を指さすわけじゃない。「え、わたしのこと?」って頭突き出して頭頂部指さす人も見たことない。
鼻をシンボルとして捉えるなら、エレメントば「火」だな。
水エレメント的な感情「はぁ、うっとり」って時は頬を包み込んだり胸に手をあてるけど、鼻をつまむなんて行動には現れない。
顔の他のパーツはどうかな。
鼻が突き出てくると自意識過剰なイメージだけど、唇がつきでてくると不満げだよねぇ。それか、チュッチュしようとしているのか。てことは水だ。
口は喋る器官だからコミュニケーションの風では?とも思うんだけど、風は口には触れないなぁ。無意識に口を触っちゃうってのは、「物欲しいポーズ」だったり寂しさだったり、幼児的な行動(愛情を求めるシグナル)になるからやっぱり水だ。
耳は?耳ポリポリって、リアルに耳がかゆい時以外に象徴的な動きとしてあるかな?耳たぶさわさわ、は聞いたことあるかも。私はピアスいじいじしてるときがある。
あ、「退屈」だ。耳は退屈。
つまらない時とか、不要な情報だなって思うとき。耳ほじポーズが出る。これは風エレメント的な部位だね。
目は相手に伝える情報量が多いから、特定のエレメントに絞れないね。
地エレメントを象徴する顔の部位は?地って顔面そのものだからなぁ。例えば顔に触れる(どの部位ってわけでもなく、ハッと顔に手を当てる)ってのは、無意識から意識が戻ったときとか。私、ここにいるよね?存在してるよね?って確認したいとき。
しっかりせねば!って思う時に顔をペチコン!って叩くし。
ここに顔があるぞ、私がいるぞ、現実に自分をむすびつけねばだぞ、って。
情報量と思考力は全くの別もの
「ある」と「できる」は違うよってこと。「知ってる」と「分かってる」の違いってのかな。ものすごい量の情報があるからって、それを取り扱う能力が無ければ、使い道がないわけで。
情報メタボなのに「足りない」「その先に行けない」って思うなら、代謝の仕方を学ばないと。摂取し続けて消化不良になるんなら、どう自分の栄養にするかって部分にエネルギー向けないと。
増やせば解決するって、なぜかそんな気がするんだけどねぇ。
逆だよ逆!ってことがしょっちゅうある。
感情量と感情力(感受性、感動力)は別物
情報を取り扱う能力には「思考力」だとか「考える力」「頭の良さ」って言葉がいっぱいあるのに、「感情」はどうだい。語彙にないってことは、取り上げて言葉にする必要がない、関心がないってこと。
感受性ってコトバが近いかな。使われているニュアンスは違うけど、心の動きを表すことばだから。それか、感動力?「頭の良さ」と言っても「心の良さ」って言わないもんね。心を取り扱う器量というより、心の純粋さとか性格の良さとか、ちょっと違う意味になっちゃうし。
感情を取り扱う能力、器量だと言えば、アンガーマネジメントだとかEQだとかいろいろその方法論、メリットも研究されてきてはいる。でもまだまだ、そういう能力イコール「コントロール能力」「意識的に支配・抑圧・制御する能力」だって勘違いされている。
思考力は確かに、情報のコントロール能力に近い。
必要な場面で必要な情報を、取り出したり、組み合わせたり、保留する能力だから。でも思考力だって、無理やりひとつの考えに固執するよう仕向けること、考えるのを放棄することじゃないでしょ。それは洗脳、思考停止であって思考力じゃない。
感情だってそうでしょ。抑え込んだり感じるのを辞めたり無視することが感情を取り扱う能力じゃない。全く逆。もちろん暴走させること、我を忘れて感情のままに行動することじゃない。
じゃあ、感情を取り扱う器量、感受性ってどういうチカラなの。
情報があるだけ、集めるだけが思考力に結びつかないように、感情の激しさだとか振れ幅の大きさは全く別物だよ。
情報を取り扱うことができるってことは、情報の外側に自分がいないとだめだよね。感情も同じ、感情と同化するんじゃなくて、感情を外側から把握できるってのが大前提。
「レゴで創作する力」が思考力だとしたら、ひとつひとつのレゴブロックは情報。誰かが創った作品を見るのも楽しいし、モデルにはなるけど、自分で創ってないんだから、それを集めても「レゴで創作する力」にならないでしょ。
感情力も同じようにレゴで無理やり例えるなら、箱にしっかり詰め込んでふたを閉めてレゴで遊ばないようにすることでレゴを攻略(支配)した!と思ってやいないか。それはもちろん、「レゴで創作する力」じゃない。そんでもって箱をぶちまけてパーツをあたりいちめんにまき散らすのも、感情力じゃない。
感情力の場合、「レゴで創作する力」というか「レゴで遊ぶ(楽しむ)力」かな。ぶちまけるのも、まぁ、刺激的で楽しい遊び方のひとつかもしれないけど。
パーツは多ければ多いほどいいか?
多ければそれだけ大きいものに挑戦できる。でも創作する力はいかに大きいかってところだけに注目していないし。遊ぶ(楽しむ)力は必ずしも大きくなくてもいいかな。
パーツが多いと、戸惑うことも多いのは確かだ。特に感情は。
でもパーツが多ければ多いほど難しいってわけでもない。難易度は一緒じゃない?というか、少ないなら少ないで大変なこともあるし、多ければ多いで大変なこともある。
ぶちまけるか密閉するか、の二択だとするなら、感情の量や振れ幅ってのは大変さに直結しちゃう。でも、感情力はそうじゃない。
「箱の中に閉じ込められる⇔箱から解放される」って、レゴブロック本人(?)の視点でしょ。そこから、「ブロックで遊ぶ子ども」っていうひとつ上の次元に視点を上げよう。
ブロックに同化しないでブロックを外から眺める。そしてそれを楽しむ。楽しむバリエーションの豊かさが、感情力じゃないのかねぇ。
重なり合う世界の層
ニンゲン、というか世界の層は、自分の内側しか把握できませんよってハナシを2日前の記事で書いてたんだけど・・・いわゆる「次元」のハナシ。
このアンサーソングを受け取ったのが昨日。
いやぁ、びっくらこいた!!!!!まさかこのことがテーマだとは(笑)
入れ子状の世界のこと、次元の構造に触れる物語だったんだね・・・2日前に書いたブログのハナシ、外側の層は内側の層を把握・干渉できるけど、自分より外側の層は世界の外側だから「把握」はできないってこと。
いやぁ、タイムリーに同じテーマのハナシでびっくりこいたの。
しかもね、先週お届けした【宇宙からのギフトを読み解くプロジェクト】で触れた内容が、今更ながら「この構造のハナシをしていたのか!!!!」と腑に落ちた。
その時はこの本が橋渡しになってくれた。
閉じている本と開いている本
サンプル部分だけ読んだこの本で、「開いている本」と「閉じている本」ってハナシがあって。
閉じている本ってのは、「結論」や導きたい「意図」があってそこに向けて進んでいく本。開いている本ってのは、それぞれがどんな結論を出すのか、そのプロセスの一部(考えるきっかけ)になることを期待して書かれた本。
開いている本に、閉じている本のような「著者の言いたいこと、意図、結論」を求めて読むと「結局何が言いたいんだ・・・」「つまりどういうことだ・・・」と置いてけぼり感が残る。
そうかそうか、私のWSは開いている本タイプだったんだな!受講者と噛み合わないのは、その人が「閉じている本」を期待しているからだったのか。と納得。
『マギ』も、開いている本だった。後半は特に。
何が良くて何が悪いのか、正しいことと悪いこと、それを最後までグルグルぐるぐると反転しながら展開する。目が回って酔いそうになるくらい(笑)いちおう、主人公を通してモデルは示されてるんだけど、でも他のキャラクターの目も通して「ほかの選択肢もありだな」って思わせる内容が秀逸。
漫画って、ストーリーや絵、キャラクターを単純に楽しんでるつもりで、無意識にその「問いかけ」を拾えるのがすごいなぁ。物語ってすごい。
あ~~~、おもしろかった!!!!昨日は朝から陽が沈むまで丸一日漫画を読み、夜は余韻に浸っておりました。10巻から37巻(最終巻)まで一気読みしたぜ。はふぅ。。。
ふきぬける熱風、でございました。
物語が私を生むのか?私が物語を生むのか?
意味があるのか、意味を与えるのか。
互いを生み出しあう、入れ子状の物語。
裏をかくボス、その裏の裏をかくボス、その裏の裏の裏をかくボス、その裏の裏の裏の・・・「あれ、ワタシってだれ?」
これってスペース☆ダンディの「誰も知らないカメレオン星人じゃんよ」(笑)
そうそう、最近堀元見さんのスピ本をめちゃんこバッサリぶったぎってる動画の「私は誰?」みたいなカオスな展開に爆笑してたんだけど、これもカメレオン星人のオチじゃんよ。
それにしても、割と売れてる本であっても「優しいコトバ系のスピ本」ってこんな危険な思想なの?ってちょっと寒気した。う~~~~ん・・・
平面思考と球体思考
同じ平面的に捉えるんじゃなくて、球体のように捉えようぜって考え方。朝と夜は同時に存在してるんだぜって。でもまだまだ、平面的にしかとらえられないのがニンゲンよ。
ああ、そうだ先の【情報量と思考力は違う】はこの本を読んでメモしたやつだった。今から読むところ。
外山せんせの本は『ライフワークの思想』が印象的だったんだ。
考える力が欲しいなら、忘れろ。情報メタボじゃ思考力はつきまへん。
身体的な知性&月的コミュニケーション能力
この動画の説明で言えば、身体感性論ってのは、身体を「受け止めるチカラ」「自分らしさを創りあげるチカラ」両面から捉えようってハナシなのかな。まさに月だな。
身体の情報量はかなり多い。
でもその情報は「言葉に依存した論理的知識」では捉えきれない。そりゃあ、身体は水星じゃなくて月が担当だもの。その情報にアクセスするために、身体をモニタリングする必要がある。
⇩モニタリングあれこれについて取り扱う【星に学ぶWS月編ver.2.0】
上の動画「身体感性論」を提唱するシュスターマンせんせの「発見」で面白かったのは、海のドラム缶のハナシ。
私が美しいと思っていたのは、海そのものではなく、むしろ海という「観念」であったということがわかった。
「観念」は、美の直截な体験を邪魔する、思い込みのヴェールである。
自分の中の基準(前提)に気付く。これが変容。
新しい情報を得て新しい自分になるんじゃないの。これまで自分が持っているもののなかで、持っていることすら気付かずに当たり前の前提として使っていた情報に、気付くってこと。
これが、変容。変容ってのは、学び。学びの結果が、成長。
わかった!って思う時、自分はわかってると思っているとき、「わかったつもり」になってるとき、それがいちばん学びから遠い場所にいるってこと。
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⇩学びプロジェクト【星の読書会】