正直言うと、私は占星術が嫌いなのかもしれない

月が満ちてきましたね。

ブランニュー・ミーの「境界線」に向けて

膨らんできているトキのエネルギー。

 

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私はね・・・

占星術との距離感、に変化が出てきたの。

 

占星術ブログだし、ブログがきっかけで出会えた読者さんたちはみんなステキな人で、大好きだから、これについて書くのはひじょーにためらうの。

私はみんなの楽しんでる占星術を否定するつもりも、楽しみ方を批判するつもりもないんだけど、そんなふうに捉えられるとイヤだな、って思って。

 

私個人の楽しみ方が、ちょっとみんなの楽しみ方とズレてるだけで、これは好みの問題。お笑いファンの中にはスタンダップコメディが好きな人もいれば、一発芸が好きな人もいる。どっちが正しい楽しみ方か、正統な楽しみ方か、なんてもんはないわけ。

 

I like astrology but I don't see eye to eye with people who like astrology.

They tend to categorize people into characteristics of zodiac signs, not seeing others as they are. I admit that everybody has stereotypes or biases about other people, but do we confidently assume and tell others that "you must be like this" or "like that" even if we don't know them well? No, we don't. but they do. (Well, many astrology fans do. Not all of them.)

 

They strongly believe zodiac signs can tell their TRUE SELF. What is true and what is not? I'm not going to mention about "confirmation bias", but they seem to focus on what they want to see. It's, frankly speaking, annoying. I don't like to be labeled.

 

Having said that, I also enjoy astrology.

To me, it's just another language. It has vocabulary, grammar and connotations. I like to read horoscope (a diagram of the relative positions of planets and signs of the zodiac at a specific time) and translate it into my language. It tells me many stories. I just enjoy reading the stories that stars depict. Doesn't it sound romantic to learn the language described by the universe? The alphabet of their language is planets, their relative positions are like word order, zodiac signs are like adverbs or adjectives.

 

I'm not interested in categorizing people or predicting social trends. When I read someone's horoscope, which is considered to shows one's personality traits and events in the future, I won't read it as "fortune telling" or her "true self". It's JUST a story. A special story, one and only for you, prepared by the universe when you were born.

I love reading stories. A story doesn't define or force you to do something. You can learn a lesson from the story if you want. It's your story written in the language of stars. Nothing more, nothing less.

 

占星術は好きなんだけど、占星術が好きな人とは正直あんまし…ハナシが合わんのやわ…ってぼやいてる日記(笑)

 

 

タイプ分けとか、カテゴライズが人気で受け入れられやすい背景は分かる。

人は曖昧なもの、よくわからないものにストレスを強く感じるから、「分かりやすい」ものを好む。分かったような気になりたがるのは、一種の防衛本能。

 

もちろん、自分を理解したい、相手を理解したい、って考えはとってもダイジだと思う。そこからコミュニケーション(関係性)は始まるから。

それなのに、占星術は関係性を編み始めるどころか最初っから閉じちゃう方向に使われてないか?ってのが、私の気になるポイント。

 

「ああ、あの人は〇〇座だから~なんだよね」

「私が・・・なのは、星の配置がXXXだからなんだ」

「(何かしらの言動を見て)〇〇座でしょ?」

 

過去のなにかしらの原因を、自分の煩い事の根拠を、私らしさという曖昧なものを、占星術に求めるのは、自分の力を奪うリスクが大きいんじゃないかな、と。いや、スッキリするのは分かる。分かるよ。

ひとつのきっかけ、考え方の糸口として占星術を活用している人もたくさんいるよ。でもそうじゃない人の方が圧倒的に多い、そんな印象がどうしてもぬぐえない。

 

心構えとして知っておくことと、ステレオタイプを強化すること、両者は正反対の結果に導く。なのに、ぱっと見一緒だからむつかしい。頭でわかっていても、知らず知らずのうちに思考停止の快感(本人はめちゃくちゃ分析=頭使ってる気分になってるのがまた厄介)に浸ってしまう。

 

占星術、その他占い(卜占系じゃなくて命占系)の罠だなぁって思う。

 

ちなみに私、血液型占いとか星座占いとか、カテゴライズ系占いがすこぶる苦手(つまり嫌い)です (;^_^A

確証バイアス」「バーナム効果」「自己成就」等々を知ったうえで会話のネタにするんなら、喜んでお相手しますが。

 

それから、「統計」とか「量子論」とかよくわかってないひとがもっとよくわかってない人に向けてそれっぽさを出すために科学をにおわす占いも、嫌い。統計じゃなくて経験則、しいて言うなら分類学

 

占星術勉強中の人は確かにたくさんの人を鑑定してデータを集める。

でも、「当てはまっている例」だけしか集めない。「海外に縁のある人は射手座が強調されている」という検証にしても、実際に縁のある人のホロスコープを見せてもらって確かにそうだ!ってなるのは統計じゃない。確かにそうだ!が100人いても1000人いても、そうじゃないケースの人数と比較しないと意味がないから。

 

世界には、白い白鳥だけが存在していて、黒い白鳥は存在しない。存在するしない、オールオアナッシングだと「悪魔の証明」になって難しいんだけど、そうじゃなくても白い白鳥が統計的に圧倒的に多いのだ、と主張するためには白い白鳥を何羽集めてきてその数の多さを主張しても、黒い白鳥をカウントしてないだけだったら意味ないでしょ。

 

「経験則」を根拠にするにしても、確証バイアスがあるからないぁ。

当てはまる部分(自分が主張したい部分)だけを見て、そうでない部分は例外として切り捨てる脳のクセ。わざとじゃなくても、そうしちゃうんだよ人は。

 

 

私は「ホロスコープ/原因⇒現実/結果」として読むのが好きじゃなくって。因果関係はそこにないかもしれない、とも思ってる。(この発言は占星術ファンに怒られるぞ!)

じゃあ相関関係は?それもどうかなぁ。

 

※因果関係と相関関係の違い

因果関係:原因→結果の関係

相関関係:直接の原因・結果の関係じゃなくても同時に変化する関係

 

でも私たちの暮らしぶり、ミクロの世界観と、宇宙の星の配置、マクロの世界観は同時(同じトキの上)に存在している。当たり前だけど。そこにすごく意味があると思うの。

 

マクロの世界観を描いた星の言語、それを写し取ったのがホロスコープ

要は、この瞬間瞬間のトキをどう記述(表現)しているのかってことじゃないかな。私が関心あるのって。私という肉体器官を通して見る世界と、星の言語を通して見る世界。その同時にあるけど意識していないトキの視点を繋ごうとするのが占星術で、繋ごうとする行為そのものに「意味がある」、私はやっぱりそう考えてるみたいだ。

 

左目が赤いセロファン、右目が青いセロファンの眼鏡って、昔あったじゃない。3D眼鏡。片方だけだと、真っ赤な世界か真っ青な世界しか見えないんだけど、両目で絵を見ると二次元の絵が立体的に見える。

 

同時に存在する異なるトキを繋げる占星術ってのは、あの眼鏡みたいにさ、ひとつ違う次元に視点をずらす術、みたいなもんなんじゃないかな。

 

一方的に「原因」として受け取っていたら起こらない循環が、そこにはあると思うの。積極的に繋がろうと、こっちからも働きかける。大きなトキの視点は、一方通行の視点、影響力じゃない。

こっちからも見上げるまなざしがあって、その目線がバチッと合って、アイコンタクトからビビビッとハートに電流が走って・・・みたいなさ。モーターはまわらないと発電できない。受け取って、受け取られて、そこに「関係性」が生まれて、なんらかの展開(意味)が生まれる。

 

私は、そんなふうに占星術を捉えなおしてみたいって思って。

節季や満月・新月のトランジットを読んでいる【暦の術マガジン】はその視点で試行錯誤している実験的ココロミ。

 

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コンセプトのクセが強すぎるのか、いまいち伝わりにくいのか、我がプロジェクトの中で最も反応がびみょーなプロジェクト(笑)

 

でも私は、これからますますこっち路線で楽しもうと思う。

だから、過去記事にためてきたような占星術的な分析、読み解き、パターン的なあれこれはこれからあんまりしなくなると思う。映画とか本の占星術切りは、気が向いたらするかな?!

 

 

私って、本気で好きなものをとことん嫌いになる性癖があるのかしら(笑)

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これだけカタカタと文章を大量生産しておいて、外国語学習や発達言語学やらむさぼるように学んできて、コトバが大嫌いだなんて。

 

上に転載した日記の後半部分読み返しても思うけど、私はやっぱり好きなんだよ占星術

 

Having said that, I also enjoy astrology.

そうはいっても、占星術を楽しんでる私がいる。

To me, it's just another language. It has vocabulary, grammar and connotations. I like to read horoscope (a diagram of the relative positions of planets and signs of the zodiac at a specific time) and translate it into my language. It tells me many stories. I just enjoy reading the stories that stars depict. Doesn't it sound romantic to learn the language described by the universe? The alphabet of their language is planets, their relative positions are like word order, zodiac signs are like adverbs or adjectives.

私にとって占星術はひとつの外国語のようなもの。ボキャブラリーがあって、文法とかパターンとか、そういうのがある。私はホロスコープを自分のコトバに翻訳するのが好き。色んな物語がそこにあるから。

星々が描く物語を読むのが、ただただ楽しい。だってほら、宇宙が描いた言語を学ぶだなんてロマンチックじゃない?惑星はアルファベット、その配置は語順、サインは形容詞だとかそういうやつ。


I'm not interested in categorizing people or predicting social trends. When I read someone's horoscope, which is considered to shows one's personality traits and events in the future, I won't read it as "fortune telling" or her "true self". It's JUST a story. A special story, one and only for you, prepared by the universe when you were born.

I love reading stories. A story doesn't define or force you to do something. You can learn a lesson from the story if you want. It's your story written in the language of stars. Nothing more, nothing less.

人をカテゴライズしたり、社会動向を予測したり、なんてことに私は興味がないわけ。誰かのホロスコープを読むとき、私はそれを「未来予測」だとか「運命」「真実のアナタ」として読みたくないの。これはただの物語だよ。

特別な、唯一無二の、あなただけのために、宇宙が記した物語。生まれてきたその瞬間に、ね。

 

物語を読むのが好き。物語はあなたのことを決めつけたりしないし、ああしろこうしろなんて言わないじゃん。もちろん、そこから学ぼうと思えば色々と学べる。

 

星の言葉で描かれた、あなたの物語。

それ以上でも、それ以下でもない。

 

そしてここに戻ってくるんだな。

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ああ、そうそう。

一方的な「原因」や「根拠」として占星術を扱うことが、自分の力を奪うリスクがあるって最初の方に書いたけどさ、それがどういうことかっていうと・・・

 

一般的に思い浮かべるのは「占いと依存」のイメージかな。それもある。

自分らしさ(それも"TRUE SELF"本当の自分とかいうやつ)を、自分以外の誰かや何かに決めてもらっていいのか???って疑問もある。占い師にしても、ホロスコープにしても。

 

これまでの自分と、これからの自分に対する「責任」を、ホロスコープに預けちゃってないか、とも思う。

 

「責任」っていうと、日本語だと「お前が悪い!誰が悪い!」と悪いことした原因・犯人を非難するような使われ方がメジャーだけど・・・

私の言わんとしてるのは、英語のResponsibleのイメージが近い。

 

Response(応答)する、ability能力が、Responsibility。

これは内田樹先生♡の受け売りだけど・・・

 

責任は「応答する能力」であって、問題とか非の在り処のことじゃない。問いに答えるチカラ、自分で応えようとするチカラのこと。それはすごくパワフルなチカラ。

 

私には、私の人生に対する責任がある。

私には、私の人生から投げかけられる問いに対して、それに応えようとするチカラ、自分で答えを探そうとするチカラが、ある。

 

その確信を、誰もが持っているそのパワフルなチカラを忘れさせるような「占い」は、自分のチカラを奪ってしまう。

 

「生きる」とは人生に問うのではなく、人生から投げかけられる問いに答えること。

ヴィクトール・フランクル

 

 

 

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そりゃ確かに、ホロスコープには「予言(運命)」的な側面もある。

トキの中には、変えられることと変えられないことがある。

だからこそ、それに向き合って「自分が何を選択するのか」責任を引き受ける機会が与えられるんじゃないかな。運命に対して、自分の選択権(責任)を放棄しない。それは変えられないことに執着するってことじゃない。

 

変えることができないものを静かに受け止めるチカラを

変えるべきものを変える勇気を

そして変えられるものと変えられないものを見分ける賢さを

 

― ニーバーの祈り

 

占星術に根拠を求めるんじゃなくて、これまで折り重ねてきた自分の物語を編み直すきっかけになればおもしろいよね。別に編み直さなくても、そうかやっぱりこれでよかった、と確信をもってまた編み続けられるような。

 

「ああ、私は火星がXXだから~なんだ。。。」とか

「このアスペクトがあるから~なんです」

ってのは、占星術ファンの内輪ネタとしては面白いかもしれないけど、そこでストップしたら、スッキリするだけでおわるのは、もったいない。いや、原因を見つけてスッキリするために使うツールって言うんならそれでいいんだけど。

 

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「分かった気になってスッキリする」ってのを、私は求めてないし、提供したいとも思わない占星術ワークショップで参加者の求めるものは大抵それで、私が共有したいもののギャップにひどく落ち込んだものだけど。

 

分かんなくてもイイじゃない。結論出さなくてもイイじゃない。

 

(河合)線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。

(小川)ああ、2.00000・・・・・。

(河合)そうそう。分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。

 

 

簡単にシンプルに最低限の情報に分けてしまうと、大切なものが置いてけぼりになるかもしれないでしょ。大切なモノって、大抵曖昧でグレーゾーンで不確定なシロモノのような気がするんだ。

一旦気付いて自分と結びつけることができれば、何よりも確実で安定していて明らかな存在なのかもしれないけど。(愛、とかね!!)

 

「個」というものは、実は無限な広がりを持っているのに、人間は自分の知っている範囲内で個に執着するからね。私はこういう人間やからこうだとか、あれが欲しいとか。

 

「個」というのは、本当はそんな単純なものじゃないのに、そんなところを基にして、限定された中で合理的に考えるからろくなことがないです。前提が間違っているんですから。(笑)

 

人間は矛盾しているから生きている。

全く矛盾性のない、整合性のあるものは、生き物ではなくて機械です。命というのはそもそも矛盾を孕んでいるものであって、その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾しているんだとか、なぜ矛盾しているんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思っています。そして、それをごまかさない。

 

「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性がひかるんじゃないかと思っているんです。

 

(小川)矛盾との折り合いのつけ方にこそ、その人の個性が発揮される。

(河合)そしてその時には、自然科学じゃなくて、物語だとしか言いようがない。

(小川)そこで個人を支えるのが物語なんですね。

 

矛盾ってのは、葛藤とか、煩い事とか、そういうこと。それに根拠を見出して(責任をどこかに預けて)スッキリすることと、そこに自分なりの折り合いをつけることってのは、ちょっと違う。違いを説明するのは難しいんだけど。

 

親のせい、夫のせい、ホロスコープ(出生)のせい、どうしようもないものに預けてしまえば、楽っちゃ楽よ。あ、でも自分が悪かった、全部自分のせいだ…って罪悪感にさいなまれるのは責任を受け取るってのとまた違うから、注意が必要。

 

今、自分はこんな物語を生きている。生きようとしている。

そしてその先を、創りあげている過程にある。

 

 

いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、については何の解決にもならない。

「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。

 

その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。

死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。

 

物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結び付け、自分を一つに統合できる。

人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。

 

表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところにある混沌は論理的な言葉では表現できない。

それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。

物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる

 

生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げて行くことに他ならない

 

そうするとね、この世界のすべてが自分の物語のための「伏線」になる。(笑)

 

物語ることによって汝自らを救え

 

物語が私を生むのか?私が物語を生むのか?

意味があるのか、意味を与えるのか。

互いを生み出しあう、入れ子状の物語

 

ほら、そこに循環が生まれて、生命力が発電される!

占星術入れ子状の物語、発電装置!!

 

もとから決められた意味や運命があるわけでも、私が世界の意味を定義する(解釈する)わけでもなく、そういうシンプルな一方通行じゃないんだろうね。そういう「関係性」を、どうにかこうにか取り戻していきたい【暦の術プロジェクト】。。。

 

でも、なかなか・・・なかなか・・・言語化に悩んでおるのですが( ;∀;)

 

 

Life isn't about finding yourself. Life is about creating yourself.

人生というのは「自分を見つける」ことじゃない。人生とは「自分を創造する」ことなんだ。

 

ジョージ・バーナード・ショー

 

 

結局ね、最初からどこかに確固たるTRUE SELFがあるわけじゃなくて、そこにはなんにもないんだよ。空っぽ。空っぽのまわりに集まったホコリみたいな色んなアレコレを、糸でつないだりろくろを回したりしてカタチに仕上げたのが「ワタシ(現時点での)」なわけ。

 

糸を通し直すこともできるし、ろくろをまた回して違う形に練り直してもイイ。

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本当のわたし、真実の個性、そんなもの最初からない。

この考え方が一番強烈な「占星術ファンと話が噛み合わない」理由かな。

 

自分らしさは、ホロスコープの中にはない。

(描かれていない)

 

月と太陽は、新月・満月でいちいち注目されるように、つねにぐるぐると更新されている。いや、他の星もそうだけどさ、月の「生(はじまり)と死(おわり)」の表現は特にわかりやすい。

 

「私らしさ」は常に更新され続けてる、ってこと。

新月で始まって、満月で達成する。そしてまた欠けていって、トキが巡る。

 

自分らしさってのは、自分をどう表現するのかってこと。どんな物語の「過程」として今の状況とそこにいる主人公の自分を見つめるかってこと。

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この考え方は、「そうじゃない!!」と反対意見が多いと思う。というか、ほぼ反対意見だから、わざわざコメントで指摘してくれなくてもいいよ、わかってるし。

「へぇ、そんな見方をしてる人もいるんだ(笑)こいつは真理がわかってないな。真実はホロスコープにあるのに。おほほ」と上から目線でスルーしておくれ。

 

 

『一つの決断の背後には本人にすら忘れ去られていた様々な動機が眠っているものなのかもしれぬ。』

 

 

そこには隠しておきたい(見たくない、忘れたい、意識したくない)何かがあって。切って捨てた自分がいて。

 

「本当の自分」探しが危ういのは、気に食わない自分を切り殺して、自分らしさを純化することが「本当の自分」になることだと勘違いする人がいること。

 

(中略)

 

自分と、自分以外の誰か。その時その瞬間の時、場所、いろんなものや出来事の配置。その何本もの絡み合った糸が、糸くずになって、毛玉になって、現実になってる。

 

これが自分だ!と思っていたことだって、見方によっちゃ糸くずの集まりでしかないわけ。でも、誇り高き毛玉さ。この糸は好きだけど、これはイヤ、って仕分けすることもできるけど・・・

 

選り分けて捨てた糸くずこそが、自分らしさをつくってくれていたりする。切って捨てた自分が、自分の影が、自分の陰影(立体感)を形作る。絵を描くと分かりやすいけど、影を入れると絵にグンと奥行きが出るでしょ。

 

(中略)

 

ワレワレは胎児の時、指と指の間に水かきみたいに皮膚があった。それが切り捨てられて、「指のカタチ」ができた。それが「ある」ままだったら、いまの指のカタチは「なかった」。

 

もひとつ他の例もあげるなら、きっとこれは若い子知らんだろうけど、むかーし夏祭りとか縁日の屋台であった出し物のさ、「型抜き」!お菓子の板(だったっけ?)にさ、針とか爪楊枝でぷつぷつ穴をあけて、絵をくりぬくんだ。(ムズカシイんだなーこれが!)

型抜きの板にはあらかじめ図があるわけだけど、私たちの人生はこんなにハッキリ「型」を指定されていないだろうね。結構自由にぷつぷつ針を刺していけると思うんだ。

 

そんで、抜き取った「穴」が、なにかしらの「カタチ」になるわけ。最初からカタチを意識して針を刺してないのがおもしろいところ。結果的に繋がって、穴になる。それが、「私らしさ」っていう形になる。

 

「私らしさ」のドーナツ理論ですな。

 

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ほんとはさ、この記事⇩をリライトしようと思って自分の考えを整理してたの。

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全然リライトまで進まなかった(笑)

 

ワタシがこうして何かをすること、何かをしないこと、そして存在そのものを、絶対的に認めてくれる、肯定してくれる根拠。

それをあぶりだすために占星術っていう言語が生まれたんじゃないのかな。

 

ワレワレはもともと肯定されている存在だから、それについて語ろう、ってのとちょっと違うと思うんだ。成立の背景には、それがないんだよ。ないからそれを求めるために必死になった

 

今こうして世界が存在していること、自分が生きていること、それを絶対的に肯定してほしい。肯定したい。その根源的なキョーレツな欲望、欲求、ニーズが占星術成立の背景なんじゃないか。

 

それをハッキリと明示はしないけど、そうやって編み上げられた世界観に共鳴して、ヒトは占星術に惹かれるんじゃないのかな。奥底に、同じ問いがあるから。

 

無いものを「ある」と仮定してそれについてコトバの限りを尽くしているんです。あ、仕組みとしては、ですから。占星術って言う言語の仕組みね。

占星術の仕組みに立ち返って言えば、「この瞬間、このホロスコープを選んで生まれてきた」なんてことはなく、逆に生まれてきたことに対する理由付け、神秘、を証明するためにホロスコープを使って語ってるんだよ。

 

なんていうのかなぁ。

その「根拠がある世界」を共有するために作られた人工言語が、占星術ってこと。それが「ある」と仮定している世界観。

 

こんなこと言うと「仮定じゃなくてそれが真理なんだ!!」って怒られるかもしれない。でも疑う余地もない真理ってのはわざわざコトバにされない。真理は沈黙のなかにあるから。

 

私たちは占星術を通して、ひとつの世界観を(仮に)共有する。

それは存在の根拠を、絶対的に肯定する世界。

私はそれに賛同するから、この言語を学ぶ。

 

運命も、存在理由も、宇宙の秩序も真理もそもそも「なかった」。

ちょっとヤヤコシイことを言えば、それを表すコトバがなかったときには「あった」のかもしれない。それを「ある」と認めるためのコトバが生まれた瞬間に、「ない」が背景になった。

 

中心は空っぽなの。空っぽの部分について語るコトバ(食べるとこ)があるから、空っぽはそこに存在できるってわけ!

絶対的な肯定を一生懸命説明することで、絶対的な肯定を浮かび上がらせようとしてる。それをやってのけたのが、ドーナツ、いや占星術って言いたいの。

 

ドーナツがピンとこないなら、パティオはどう?

 

Riad in Fes

壁で囲うことで、その内側は何もないままでも中庭として建物の一部に「ある」ことになるじゃん。占星術愛好家は、占星術っていう壁で仕切った内側のパティオで楽しくお喋りしてるんだよ。

 

占星術を学ぶってのは、この楽しいお喋りができるパティオの参加権を手にするってこと。

 

パティオの参加権、世界との接点に触れるチャンス、そこまで。

その先には自分で見に行こうとしなけりゃ見えないってハナシ。

 

んで、占星術の「その先」ってのが、この人工言語設立の究極の目的で。その目的は存在の絶対的根拠を肯定すること。そんでもって、それは「ない」ことが前提になってるってこと。

 

だからそもそも「ない」ってことに気付くってのが、占星術を学んだ「その先」なんじゃない?って私は思うのね。ドーナツの穴は、穴だった。

 

パティオが、パティオで語るコトバが、自分の存在の根拠を肯定してくれるゆるぎない真実だと思うのは間違ってるとか、イケナイことだとは思わない。

生でむきだしの世界に線引きをして、壁に守られるころで、安心して語ることができるってのはダイジなことだと思う。

 

でも私は「その先」も提案したい。

わざわざ「絶対的に自分や自分を含む宇宙の存在を肯定してくれる根拠」を必要としなくなること。あなたが生まれてきたことにはこんな意味がある、とか使命がある、なんてわざわざコトバにしなくても、わざわざ肯定しなくても全く気にならない世界。

 

肯定するものをわざわざコトバにしなくても、それを否定するものがそもそもなかった、って気付くこと。

 

占星術が好き」「ハマってる」って人には、特に受け入れがたい理論だと思う。

みんながスーパーマリオをプレイしてる世界で、ゲームの攻略法とかマリオのステータスとかをワイワイ話してるんだ。そこに「マリオなんていなかった」とバラバラに分解したファミコンを見せつけられて「オモシロイな」と思ってくれる人は奇異だと思う。。。(笑)

 

 

この世界をスーパーマリオに例えるならば(笑)、

タイトルにも書いたんだけど、私達はどうやらマリオの攻略本が欲しいわけではなく。

クッパを倒したいとかもなく。

 

どうやらスーパーファミコンの本体を解体して仕組みを知りたいらしい(笑)

(私のゲームの歴史は小学校のスーファミで終わっています)

 

きっとそれすらも自分で作ったであろう本体のトリセツをなくして、せっせと解体して作り直そうとしている(笑)

 

(中略)

 

ファミコンに電源を入れてセットして。

テレビの前に座っている自分。

もうひとつ、テレビの中でマリオとして動いている自分。

 

その両方で私達は出来てる。

そしてその両面からみた物を宇宙の法則と呼ぶんだろうな✨

 

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吾輩も大好きなヘンタイ姉姉に会いたい♡♡

 

でも500人に一人、5万人に一人でも「何それ、オモシロイ(笑)」って思ってくれる人がいたら、そんな人に出会えたら、私はすごく嬉しい。

 

だから、大嫌いな占星術について、大嫌いな言語化をがんばって、こうして書いてるんだろうなって思う(笑)

 

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「嫌い」は「好き」の対義語じゃないんだな、って改めて思うよ。スキの反対は無関心。嫌いレベルが高ければ高いほど、関心度も高い(笑)