月の満ち欠けや恒星の位置を記す暦は、自然の中にある周期(リズム、繰り返されるパターン)を把握するもの。
占星術の起源を語るとき、決まって引き合いに出される「暦」ってそういうものだったじゃないか。
月の満ち欠けを記録したもの、恒星の位置を記録したもの。
暦が周期や起こる出来事を決めてるんじゃなくて、暦はリズムの中に生きるワレワレの現在地を示してるだけ。
トキを記述するモノサシ。
これが星星の影響力としてすり替えられたのは、ニンゲンの都合なんじゃないか。
支配者の、政治の、信仰の、思惑。
大衆が共通して得られる情報(お空というスクリーンに映し出されるもの)、マスメディアとして利用されたんじゃないか。
星星と人々の間にある神秘的な結びつきを全否定するわけじゃないけど…
モノサシが長さや重さを決めてるわけじゃない。長さや重さ、知りたい情報を得る目安になってくれるだけ。
月をさす指。
その指は月をさして月という存在(意味)を指し示す。でも、指はあくまでも指であって、月ではない。
月と指、モノゴトとモノサシ、連動してるから結果的に同じことを言うんだけどさ…
指を通して月に気づく、モノサシを通してモノゴトを測る、ってのと
指=月、モノゴト=モノサシ、として見るのは全く違うことだと思うの。
指があるから月がそこにある、とか、モノサシがこう言ってるからモノゴトがこういう状態なのだ、って視点はもっと違う。
例えばお湯が湧くタイミングをキッチンタイマーが教えてくれる。でもお湯が沸いたのはキッチンタイマーが鳴ったから、じゃないでしょ。それはおかしいでしょ。
お湯はお湯で、お湯のパターン(リズムや状態の移り変わりのタイミング)をそれ自体が持っている。
キッチンタイマーの特定の目盛りは丁度お湯の持つ特定のタイミングに合っていて、そのリズムの一致を使ってタイミングを測ることができる。
結局、タイマーが鳴る=お湯が沸く で言ってること一緒なんだからいいじゃないか!
って言われるかもしれない。
確かに、私はなんでそこをこんなにも気にしてるんだろう??って。
キッチンタイマーをより正確に、そしてそのリーディング技術やノウハウをより精密に。そうやってキッチンタイマーに夢中になってるうちに、もともと注目していたはずのお湯そのもの♨を忘れちゃいないか?って思うんだよね。
私はお湯そのものに興味関心があるってだけなのかも。
それはキッチンタイマーを通してその性質を測ることができるけど、お湯そのものを感じるためにはお湯そのものに目を向けないと。
でもきっと、そのお湯は目に見えないし、沸騰した音も聞こえない。
だからキッチンタイマーが必要になるんだけど、キッチンタイマーをきっかけにして「そうかそこにお湯があるのか、今お湯はこういう状態を示しているのか」と、自ら感じようとしたい。というか、しなきゃ、って思う。
それで、あぁこの感じがこの湯加減。って思い出していく。
ってのも、そもそもこのお湯は見えないし聞こえないけども私は常にこのお湯の中に浸ってるわけで。
魚の暮らす池の水みたいに、自分のいのちを生かす場そのもののはずだから。
普段気に留めていないけど、それを感じること、感じようとすることは誰もができるはず。キッチンタイマーがなくたって、その読み方を知らなくたって。
結局自分で感じ取ることでしか、お湯そのものをお湯そのものとして受け取ることはできないわけで。
キッチンタイマーはその段階においてはなんの役にも立たない。
姉姉は、「結局、永遠といわれてるものってその人の魂が反応するってことだもんね」とさらりと言ってのける。(かっこよすぎる……)
永遠=真理は、知識じゃ到達できない。
真理を記した様々な表現、キッチンタイマーやらなんやらってツールを読むには、知識は必要だけど。
そもそもお湯の感覚ってのは説明できないけどなんとなく(知識レベルじゃなく、魂のレベルで)わかる=持ってるはずなんだ。
知識(学び)はそれを確認していくもの、感覚の辻褄合わせだとか、「あぁ、こう表現することもできるのか」って発見させてくれるものなのかも。
キッチンタイマーを取り扱う者として、なにがそんなに気になるポイントなのかっちゅうと…
本来のキッチンタイマーの役割が、キッチンタイマーをきっかけにしてキッチンタイマーから目を離し、お湯の状態や存在に目を向けること、だと思ってるからなんだ。
キッチンタイマーにこだわって、ぐらぐら煮え立つお湯につかりながら、ああキッチンタイマーが鳴ってるから!キッチンタイマーでもっと何がわかる?キッチンタイマーで私はこれからどうすればいい?とキッチンタイマーに目を釘付けにすることじゃない。
そんでもって、キッチンタイマーにはお湯のぐらぐらを伝える役割があっても、そのお湯にどう向き合うかは自分で決められる(というか決めないとどうしようもない)ってこと。
向き合うには、一旦キッチンタイマーから目を離して目の前のお湯に身を浸さないと(浸していることを自覚しないと)いけない。
読み手はいろんな占術を勉強する。
もっといろんな種類のキッチンタイマーを手にすることで、いろんな表現でお湯について教えてくれるかもしれないけど、キッチンタイマーをたくさん持ってるからその分お湯に近づけるってわけじゃない。
お湯について学ぶのと、お湯を感じることは、全く全くまーーーーったく違う。
色が見えない人が、どれだけ赤色とはどんなものか、その情報を色んな角度で(波長の幅、心理的影響、文化的な用いられ方、赤を有する物の名前)学んだとしても、それは「赤を見る(感じる)」ことと全く違う。
そういう視点で、たかが暦されど暦、モノサシと現実とワタシという三角関係を感じていこうよ、って頑張って書いてるのが【暦の術プロジェクト】。
暦を過大評価せず、かといって過小評価もせず(タイマーが指し示す大切なタイミング見逃すことのないように)、繰り返し繰り返しそのリズムと現場の感覚を擦り合わせていこうってココロミ。
言ってることも、やってることも、やっぱり人気のない暦の術プロジェクト(笑)
お湯の存在を感じて、そのリズムに自分を調律していくこと。それは胡散臭い言い方をすれば、真理に近づく(感じとる)ことなんだと思う。
言語化されない、言語化できない、知識じゃ到達できない世界。それでいて、私達が常にどっぷり浸かっている世界。
生命の根源に触れて、それと自分の結びつきを感じとって、生命力を刺激しないわけないでしょう?
だから生命力をふるわす術、なの。暦の術は。
暦そのものに影響力があるわけじゃなく、読み手に魔力があるわけでもなく、
源泉かけ流しを一緒に楽しもうぜ、って。
ただそれだけ……
私が占星術に望むのは、ただそれだけ。。。