この世をば 我が世とぞ思う 望月の
欠けたることも なしと思へば
藤原道長の有名な和歌。
権力を思うままにした傲慢な歌として歴史の教科書で紹介されているけど、
幸せいっぱい胸いっぱい、な感じが個人的には結構好き。
あ〜〜〜〜、幸せ。
今、この瞬間、まんまるお月様。
って気持ち。
にしても、昨夜は見事な月でございました(^^)!!
占星術で「月」は無意識、心の素直な動きを司る天体です。
そして今回は蠍座で起こる満月なので、蠍座的色味が強く出る月です。
蠍座はディープな世界観を持つサインです。
それがタブーであれなんであれ、深く深く潜り込んで見つめる目。
占星術やタロットの勉強は、物事や人の心の面を深く深く考える良い機会になります。
正直「占い」や「(表面的な)スピリチュアル」には偏見・ネガティブなイメージがあって
「あなたは◎◎(星座や血液型)だから〜なタイプ・性格だね」と言われるのは
すごーーーーーーーく嫌です(笑)
そのくせやっぱり自分がホロスコープを翻訳するときは
そういう表現せざるを得ないのがもどかしい。
例えば生年月日や特殊な計算でタイプが分類されるとして
その「情報」から「自分らしさ」を与えてもらうのは、おかしい。
「これこれこういう理由があるから、私はこうなんだ」
の理由の部分を、外部の情報(占いや診断系)や過去に押し付けるのも、違和感。
「あぁ、そんなんだ〜」くらいに楽しむなら良いんだけども。それか、確認作業。
「使命」に関しても、そう。
「神託」を求めるのも、そう。
「過去世」に関しても。
上からのメッセージや導きに「責任」を預けちゃいけない。
流れに身を委ねるのと、自主的に生きる責任を外部に委ねるのは、全く違う。全く。
(これは自分に言い聞かせてる)
決めるのも、行動するのも、そこにどんな意味を見出すのかも、
決めるのは全部自分。
例え「神の意志」があったとしても、そこに「私の意思」が無ければ現実は作れない。
ホロスコープもタロットも、そこにあるのはシンボルでしかない。
それが現実・事実情報と合致しているかどうかではなく
シンボルをどう自分ごととして落とし込んでいくか。
物事に意味(理由、原因)を求めるんじゃなく
自分の目が捉えた現象にどんな意味を込めていくか。
どんな意味に繋げることを決めるか。
それを忘れちゃいかんなー、と。自分に言い聞かせる。
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
わが身ひとつは 元の身にして
月を見て何を見るか、繰り返す春に何を感じるか。
変わったのは月か、春か。自分自身か。
神秘の存在に敬意を払う、ということは
自分に責任を持った態度で接するということ。
上か下かと優劣を作ってひれ伏してありがたがるんでもなく。
都合のいい時だけ神頼みで「消費者」としてコンタクトを取るんでもなく。
量子論や心理学、はたまた統計学を引っ張り出してきて「分かった気」になるんでもなく。
新しい関係性を持つべきだと思うんだよなぁ。
強くなくていい。ブレてもいい。
でも自分の命は自分で生きなきゃもったいない。
「使命」ってやつも実は壮大なもんでも特別なもんでもなく、
ただ命の使い道を部分、部分で切り取ったもんだと思うのよね。
だからAさんやBさんは「今」自分が成し得ないことを
「今」の自分に代わってしてくれてるってことになる。
ある意味全員が特別で特殊なエラバレシ存在であるし
大きな目で見れば結局全部自分自身の一部なんだから羨ましがる必要もなく。
「私は何のために生まれてきたんだろう」
なんてなんも意味のない問いだと思うんですよ。
「で、私は何をしたい?」と問いを立て続けることに意味があるわけで。
人から与えられた「目的」ではなく、自分で創り出す未来を。
ひとつの命を運ぶひとりの人間としての責任を。
ひとつの命のために網目状に繋がり広がる愛に感謝を。
なんかそんな感じ。