字面だけ捉えた「意味」と、分かろうとする人にだけわかる「真意」ってやつ。
分かる人にだけわかるのよって選民思想的な分別じゃないよ。
分か「ろうとする」人に向けて、そっと添えられてる意味。
だからわかりやすさ、伝わりやすさ、シンプルさに価値を見出してるうちは絶対に教えてもらえないわけ。
たとえば、映画や文学作品のオマージュとか、俳句の本歌取りとかね。
元ネタがあって、「あ〜!こういう意味が背景に込められてるのね!!」って、メッセージの深みが増して連鎖していく。
岡田斗司夫のジブリ解説とかその「真意」を暴いちゃう面白さがあるのね!!(笑)
たとえば「母」だったり「りぼん」だったり「馬」と聞いて(見て)そこに字面だけじゃない「象徴」を見出すことで立ち上がってくる立体的な世界。そこに添えられた「真意」がある。
占星術の記号も、裏表のフラッシュカードとは違う、もっと複眼的で多面的な捉え方をするともっともっと味わい深く楽しめるんじゃないかなぁ。複眼を得るには同じ水平線場を真面目にベンキョーしても△なんだな。
「占い」という同じ次元で占術を極めたりスキルを高めたり他の占術、手法を学ぶことよりも・・・経済、歴史、政治、生物、文学、垣根の向こう側に首を突っ込んで結び付けていくのがいいよね。
えとえと、ダブルミーニングのハナシ。
「世界(時間も空間も含めた全宇宙)の仕組み」をどうにかして「説明しよう」としたものを宗教というなら、宗教でも「顕教」と「密教」でダブルミーニングを運んでいる。
「顕」は現れている部分、見えている部分。
「蜜」は裏側、字面じゃ捉えられない部分かな。
密の方が真意だからタダシイとか、エライとか、そういうのんじゃない。優劣はない、たぶん。宗教家の人たちからしたら違うんかしらんけど。スピリチュアル主義が尊くて、現実主義者が愚かだってわけじゃない、と個人的には思う。
片方に偏るといろいろ不便は出る、ってだけじゃない?
あと、コトバそのものにとっての「顕」と「蜜」。
字面が伝える意味(顕)と、真意というか中身というかメッセージ(蜜)の部分。
文字はカタチ(記号)で、音(響き)を経由して、意味と繋いでる。
このへんは、空海さんが書いてるっぽい。
先人はすげぇなぁ。
これは私の思いつきレベルの考えなんだけど、
字面の意味を「カタチ」、分かろうとする人にしかつかめない意味を「真意」とすると・・・
カタチは真意を隠す。
でも同時に、カタチがなければ真意も見つけられない。
だからカタチは真意を「とらえる」装置であって「引き出す」装置でもある。
コトバというカタチからアプローチするなら哲学や宗教。姿勢やポーズという身体のカタチでアプローチするならヨガとかスポーツ、武術。身の回りにある視覚的なカタチからアプローチするなら、植物や動物(フラワーエッセンスやトーテムアニマル)。
入口はめちゃめちゃ、バラバラ。なんでもアリ。
「顕」はバラエティ豊かだけど、「蜜」は全部くっついてひとつのナニカ。だからどっから覗き込んだとしても、「あぁ、あのことね」って同じものを見つけられる。
全部が全部、オマージュ。