ごめんやけど、あなたは船長じゃないわけ

みんな「わたしが思考している」「わたしが考えている」「わたしが感じている」って思ってるけど、実のところ、「わたしを通過している考えや感情のうち、意識の網にひっかけられた一部分」を指してそう思ってるだけなのかもね。

 

 

オルダス・ハクスリーの講演録で、彼はこう表現していた。

わたしが考えるんじゃない。考えがわたしに入ってくる。

時々わたしはそれに気付く。

 

彼の小説を冒頭だけ読んで衝撃的だったから、講演録のほうを買ってしまった。

科学の進歩、技術の進歩を「生産性=いかに(社会の)役に立つか」って指標にふりきった未来のハナシ。現代はここに一歩足を踏み込みかけているわけだから、ひとつの起こり得る未来の選択肢。

 

講演録の本のタイトルは、なんかスピリチュアル系啓発本っぽくて嫌なんだけど(わたしは自己啓発、スピリチュアル自伝系の本は好きじゃないもんで)

内容は「教育」のこと、これから組み込んでいきたい社会の制度、崩れたバランスをどう補っていくか、具体的実践方法、訓練方法、そんなハナシで。

 

ただ抽象的なコトバで高尚な世界観をのたもうて、「さぁみなさん次元上昇しましょう」とか言ってなくて安心した◎(笑)

タイトルにある多次元に生きるってのは、具体↔抽象とピントを変える次元=視座を固定させずに自分を生きようってことを指してるのかな。

 

 

「考えがわたしに入ってくる、わたしはそれに気付く」で思い出したのは、旅の仲間ラジオ第10回で『整体対話読本 ある』を紹介している回のハナシ。

 


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たしかね、さみしさ(感情)は通過していくもので、あなたの所有物ではないってハナシ。これ、すごくおもしろい視点だなぁって。月の特徴だなぁって。

その感情(心の揺れ動き)は無自覚に社会や集団、他者の心の動きをトレースしてるだけかもしれないよ。感情は閉じたわたしの内側だけで発生するものじゃなくて、もっとダイナミックに世界を巡る「流れ」みたいなもの。ある種の「気(エネルギー)」なんだから、って。

 

 

感情は、あなたの所有物ではない。

ハクスリーに言わせれば、思考だってそう。

 

 

さてここまでが前置きで、今朝3時にわたしを通過していったあるハナシについて書こうとおもって。夜中になんなんだよ、眠れなくなっちゃったじゃんよ、ってベッドでさ。

 

こういうのに触れていると、一歩間違えれば狂った世界に飛んでしまうのかもしれない。隣に眠る赤子のお陰で物質世界にしっかりと守ってもらえている安心感。

 

 

しかしだね、いかにうまくコトバで言い表せたとしても、コトバにしている時点でそれは絶対に「ちがうもの」なんだってこと。誰が言っている内容もそう。その例えは確かに言えてるってのはあっても、それそのものではないってこと。

 

その前提を心に留めて、こういうハナシはきくこと。

 

それはゾートロープ。

「時間は存在しない」ってのはそういうこと。

 


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動いている(時間がある)ように見えるのは、そこに意識のスポットライト(点滅する光)を当てているから。私達が普段ダイジに中心に据えているのは、光を当てて動いている用に見えるジンジャーブレッドマン本人の視点。

 

現実はもっともっと複雑で巨大な構造物の立体模型。

基本的にはみんなそれぞれひとつの穴から特定のアニメーションを見ている。

 


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それに気付いて光を当てるポイントを変えれば世界が変わる、という視点も広まってはきたけども、まだまだジンジャーブレッドマン視点から離れてはいなくて。

ジンジャーブレッドマンのままで自分のアニメーション世界をどうこうしようってがんばっても、あんまり意味はなくて。

 

 

瞑想や内省、外界からの刺激を極力落とすってのはこの光をどんどん落とすこと。

まぶしいスポットライトの中にいると、ライトの外側は真っ暗で何も見えない。存在しない。照明をおとして目が慣れてくると、外側の世界のこの巨大な構造物の存在感をなんとなく感じられるようになってくる。

 

うまくいけば、自分もこの構造物に無数にたてられた模型の一部だって気付く。その巨大で強大な一体感に幸福感を感じるかもしれない。

 

それでもあなたはまだジンジャーブレッドマン

 

ひとつ、提案しよう。

逆に照明の光をじわじわと広げてみるのはどうだろう

ジンジャーブレッドマン単体の動きに集中しているところを、光の境界線を隣の構造物、その隣の構造物、またその隣の・・・って自分の一部として感じていく。

 

ううーん、やっぱりコトバにするとニュアンスが変わってくるな。

でも忘れる前に急いで書き残しておこう。

せっかくゲニウスにこちょこちょされたんだから。

(彼らはニンゲンの活動時間とか一切気にしない)

 

 

 

「わたしはわたしの運命の主人」

「わが魂の船長はわたしである」

ウィリアム・ヘンリーのこの言葉を挙げて

これほど傲慢で、とんちんかんなことはない、とハクスリーは言う。

 

最近の占い提供者が好きなセリフなんだけどな(笑)

なんならわたしもこのブログを立ち上げた当初、最初の記事で占星術を例えるときにそう書いていたかもしれない。

 

 

「わたし」に運命を支配することはできない。

だってわたしは「もっとも口うるさい船客のひとり」にすぎないのだから。船長の食卓に招待されるほどの身分でもないし、魂の船がどんな形で、どんなふうに動き、どこへ向かっているのか知らされてもいない。

(これは占星術、占いファンのみんなから反論が来そうだけど、今のわたしはこの言い分がとってもしっくりくる)

 

 

運命を「支配」することはできない。

できないけども、コラボレートしてある程度方向付けは可能。というか、運命といかに「協調」するか、を見るのが占いなんだから。

運命と、自分が乗せてもらっている魂の船の動きと、協調さえしていれば大丈夫。いかに最悪なことが起ころうとも、大丈夫なんだから。

 

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