どう「生きるか」なんだよ、つまるところ。生きるのはその身体、身体を通して生まれる時間、トキとバの座標を生きるんだよ

今日返却した本📖💫

『快楽主義の哲学』もめちゃめちゃおもしろかったから、ホカホカの気持ちを早く書き残したいんだが…!!

 

ひとまず、この本のメモから✍

 

 

だから、君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでゆかなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵は、――コペル君、やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。

君自身が生きてみて、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することができるのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、決していかない。

だから、こういうことについてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かをしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。

 

常に自分の体験から出発して正直に考えてゆくこと。

そうでない言葉は、考えは、どれだけ偉そうなこと言っていてもみんな嘘っぱちになっちゃうから。

 

しかし、言葉だけの意味を知ることと、その言葉によってあらわされている真理をつかむこととは、別なことでした。

 

 

もちろん、知識(言葉の意味)は重要なツールだ。

それは素材だ。レゴブロックだ。

私達が自分の触れる世界を図るために必要なモノサシだ。

 

 

暦、星のリズムを記したものという点で、占星術だって世界のモノサシだ。それ自体が真理というわけではない。真理を知ろう(図ろう)とする営みではあるけども。

 

星星と人々の間にある神秘的な結びつきを全否定するわけじゃないけど…

モノサシが長さや重さを決めてるわけじゃない。長さや重さ、知りたい情報を得る目安になってくれるだけ。

 

(中略)

例えばお湯が湧くタイミングをキッチンタイマーが教えてくれる。でもお湯が沸いたのはキッチンタイマーが鳴ったから、じゃないでしょ。それはおかしいでしょ。

 

お湯はお湯で、お湯のパターン(リズムや状態の移り変わりのタイミング)をそれ自体が持っている。

キッチンタイマーの特定の目盛りは丁度お湯の持つ特定のタイミングに合っていて、そのリズムの一致を使ってタイミングを測ることができる。

 

(中略)

キッチンタイマーをより正確に、そしてそのリーディング技術やノウハウをより精密に。そうやってキッチンタイマーに夢中になってるうちに、もともと注目していたはずのお湯そのもの♨を忘れちゃいないか?って思うんだよね。

 

私はお湯そのものに興味関心があるってだけなのかも。

それはキッチンタイマーを通してその性質を測ることができるけど、お湯そのものを感じるためにはお湯そのものに目を向けないと。

 

でもきっと、そのお湯は目に見えないし、沸騰した音も聞こえない。

だからキッチンタイマーが必要になるんだけど、キッチンタイマーをきっかけにして「そうかそこにお湯があるのか、今お湯はこういう状態を示しているのか」と、自ら感じようとしたい。というか、しなきゃ、って思う。

 

それで、あぁこの感じがこの湯加減。って思い出していく。

ってのも、そもそもこのお湯は見えないし聞こえないけども私は常にこのお湯の中に浸ってるわけで。

 

魚の暮らす池の水みたいに、自分のいのちを生かす場そのもののはずだから。

普段気に留めていないけど、それを感じること、感じようとすることは誰もができるはず。キッチンタイマーがなくたって、その読み方を知らなくたって。

 

結局自分で感じ取ることでしか、お湯そのものをお湯そのものとして受け取ることはできないわけで。

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オルダス・ハクスリーは、知識の重要性ももちろんないがしろにしてはいけない、と前置きしつつ、知識はさとり(大いなる知恵と一体化した世界、っていうのかな)とは全く別次元のもの、むしろ障害になるよって言う。

(ただし、障害はその先の飛躍のために必要なものでもある)

 

知識はいつも概念のかたちになっていますから、ことばとか他のシンボルによって伝えることができます。さとるということは概念のかたちではありませんから、伝えることができません。それは直接的経験であり、直接的経験について(とても不十分ではありますが)語ることはできますが、それを共有することはできません。

 

さとりについての知識と、さとりの経験それ自体は、同じではないということです。さとりは知識の原材料なのです。

 

どれだけコトバを尽くしても、図示しても、「伝える(共有する)」ことは不可能だとわりきっちゃおう。そんでもって、書籍やスゴイ人たちから「教えてもらえる」と期待しているなら考え直そう。

 

はっきりいえることは「真理は生きられなくてはならないものであり、この教えに論じることは何もない。論じれば必ず意に反するところに行きつく

 

自分自身をさとらせることはできません。せいぜいできることは、さとりが来てもよいような精神状態をやしなっておくことです。

 

どれほど真実であろうと、どれほど高遠であろうと、どれほど神聖であろうと、考えとか理想とかイメージは、現実を含み込むことはできませんし、現実のさとりにいたることもできないのです。

 

イメージ、コトバで概念化された信念と、直接世界から感じ取った信念の大きな違いは、それが人を「団結させる」か「分割する」か。

愛とか正義とか神について語ったものであっても、概念化された信念は人を分割する

 

人を分割する「愛」や「正義」や「スピリチュアルの美しさ」を語る善意の人たちを、わたしはたくさんたくさん見てきた。それは彼らにとっての心からの善意であるし、パッションや生きがいであるし、なにより「最高の善は、その性質からいって説教はできない」もんだから、だからなんだってハナシさ。

 

 

愛や正義や信念も、ともすれば暴力的な傲慢さの隠れ蓑。

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さてさてコペル君たちの本に戻ろう。

 

日本の歴史は神武天皇以来二千六百年といわれ、エジプト文明は六千年前にはじまったといわれ、たいへん古いものに思われているけど、実はそれ以前に、書物にもなんにも書かれていない数万年の歴史があるんだ。そして、これからも、何万年つづくか、何十万年つづくか、人類はまだまだ進歩の歴史をつづけてゆくだろう。

 

 

書物に書き記される以前の歴史について、私達はかなり間違った偏見を持っている

「狩猟採集文化」「縄文時代」と聞いて思い浮かべるもの、それがポジティブで理想的なものであれネガティブで見下したものであれ、かなりズレている(実はそんな単純ににカテゴライズできるもんじゃない、かなりバラエティ豊かでダイナミックに幅がある)・・・ってことがハッキリしてきている。

 

↑スキマ時間にちまちま読んでて、一向に読み進んでいないけど(笑)

 

そして最後、人類の未来についてコペル君がノートにしたためたこと。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。

そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

 

そうそう、山羊座の太陽シーズンはね、こういうホロスコープだったよ。

社会なり組織なり、もっと大きなカタマリであれ、集合してその向きを揃えたときに発揮するエネルギー、強さがある。その強さに注目する流れっていうのかな。

 

Swimmy and Co. project with Etsy

 

 

バラバラに泳いでいたら大きな黒い魚に食べられちゃうけど、みんなでひとつの大きな赤い魚になれば、大きな黒い魚を追い払うことだってできちゃうんだから。

 

全く新しい武器をこしらえるは必要ない。我が身が、仲間たちが、武器なのだ。

 

ただし、わすれちゃいけない。(ここが肝心)

この大きな赤い魚は、わたしという赤い小さな魚たちでできているってこと。小さい魚のままブルブル震えて隠れているわけにはいかない。でも大きい魚に一体化する心地よさにそれぞれの存在(自分自身を含めて)を忘れてもいけない。

 

全体が求める全体の中の構成物質としての一部分・・・ではなく

わたしという一部分が求める社会全体の姿のために、自分はどう貢献できるかって視点。

 

 

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↑なんかふるーい記事ひっぱりだしてみた