昨夜、というか今朝、夢の中で教わったハナシのメモ。
君の頭は、君の頭が知ってる範囲でしか考えることができない。
そこを留意しておくように。
知らないことは考えられないってこと。
でも、知らないことでも予測はできるよ?
なんなら、そのために頭は働くわけじゃない?
知ってることをかけ合わせて、知らないことを予測することはできる。
ただしそれは「〇〇について知らない」と知っている場合だけ。
ソクラテス的なハナシ?
言い換えよう。
〇〇について知らない、というネタがある。考える素材を持っている。
そのネタすら持っていないこと、テーブルの上にない材料は、それを使って思考することができない。
素材としてもっているから、可能性を考えることができる
〇〇について知らないけど、〇〇について知るために〇〇に関する素材を集めて、〇〇について考えることはできる。
具体的な中身は知らなくても、その事自体をネタとして知ってるから、思考の素材として扱える。
Y=aX
という式は作れる。YやXに当てはまるものがなにか知らなくても。
それはYが何を、Xが何を意味しているのかは知っているから。
素材がなければ、式は立てられない。
頭の中にある素材を超える考えを、君は考えることはない。
こんなようなハナシ。
思い出したのは、内田樹せんせが『寝ながら学べる構造主義 (文春新書)』のなかで言っていたこと。
「無知」ってのは、怠惰の結果じゃなくて一生懸命目をそらして「無知」を維持してきた勤勉の結果なんだ。
私たちは何を知らないのか?
なぜ知らないままで今日まで済ませてこられたのか?
今まで目をそらしてきたことは何なのか、そこに重要な問いがある。
「何を知っているか」じゃなくて「何を知らないのか」そこから知的探求は始まる。
自分が今考えられるコトってのは、自分の知ってる範囲の世界だけってこと。
それを超える領域は、予想すらできない。
私の感じ考え経験する世界の全ては、あくまでも私の世界の輪郭の内側に限定される。