物語はSF小説として楽しめるし、数学オタクはその裏側をつぶさに解説されている項目にうっとり満足するんであろう、この本。
私は数学解説ページほとんど飛ばして読んだけどね!!!
二次元世界〈フラットランド〉の主人公スクエア氏が、自分の経験談を読者に語りかけるストーリー。2次元の世界っていうと、平面の(フラットな)世界。xとy、縦軸と横軸しかない、図形の世界。
スクエア氏はその名の通り、正方形の殿方。
平面に住んでいる住人は、自分たちの図形を上から眺めることはできないわけで、彼らの視点は1次元(直線)に限定される。
私たち3次元の世界は<スペースランド>と呼ばれていて、スペースランドの住人であるワレワレは一目でフラットランドの住人の全貌(どんな形で、どんな位置関係か)が見える。
3次元の視点なら2次元はオミトオシ。
スクエア氏は、<ラインランド>という直線(1次元)の世界を発見する。
同じように2次元のスクエア氏から見れば、ラインランドの住人が見えない1次元の全貌が見える。でも、王様にいくら説明しようとしても、把握できる世界以上の次元のことなんて、まるでわかっちゃくれない。
じゃあ私があなたの世界に降りてみましょう!と1次元の世界に触れたとしても・・・王様から見えるのは触れている間の「点」だけ。接している間は「見えるぞ!」で、視界(直線次元上)から離れたら「消えたぞ!」になるだけ。
スクエア氏もまた、3次元の<スペースランド>から来たスフィア氏(球体)に出会う。そして疑問に思う。4次元は?5次元は?とな。
全てを見通せる目を持つ<スペースランド(三次元世界)>のスフィア氏の存在は、<フラットランド(二次元世界)>でいう神様とか天使様。高次元の存在。スフィア氏は「スペースランドにいる悪漢、犯罪者も、天使ということになるな・・・」と言う。
そうそう、それそれ。私が「次元が高い」の使われ方にむちゃくちゃ違和感を感じるのは、次元が高い=美しい=清らか=カシコイ=エラい=すごいみたいな方程式に「なんでやねん!!!」ってなるから。
ただ、世界の認識範囲が違うだけ。
確かにあがれば「分かること」は増えるけど・・・優れているかどうかってのはなんか違う。違うだけ、わかるだけ、それだけ。
次元を上げて見える世界が広がる例は、昨日の迷路の例えが我ながらイイ線いってるんじゃないかと、この本を読んでムフフとなった!
上がったり下がったり視点を意識して切り替えられるのが理想的。上昇するだけじゃなくってね。
2012年に似たようなことを書いてたのを発見。
めちゃくちゃだけど、そのまま引用。
私たちは3次元の生き物で、1次元と2次元を外から眺めることができる。
ぽちょん、とインクのしみがあって(1次元)、
インクのしみがついてる紙(2次元)を見る。
それを持ってる私(3次元)がいる。
私が見ることができるのは、インクのしみと紙、まで。
あ、でも鏡を見れば私自身も見れるか。4次元はさらに上の次元。みんな大好きドラえもんのぽっけ
3次元の私たちには 掴めない 世界。私たちが理解できるのは、外から眺めることができる1次元と2次元まで。
理解できるってのは、その背景が何か、ってのも掴むことができるってことだと考えてみる。と、なると・・・
1次元(インクのしみ)の背景に2次元(紙)があって、
2次元(紙)の背景に3次元(私)がいる。
3次元(私)の背景には4次元(+時間)がある。背景である4次元は掴めない世界、だから私たちは3次元も
まるまる理解できてるわけじゃないってことになる。4次元から見た3次元は、どんな世界なんだろう。
私たちは時間のスガタカタチを掴めてないわけだから、
「時間とは何か」っちゅう時間の概念をまるまる理解することができない。過去から未来への数直線、ってのは3次元の私たちがただ感じているだけか、
都合いいように当てはめてるだけで、本当は
未来→現在→過去 って流れてるのかもしれない。
泡みたいにポコポコ生まれては消えてるだけかもしれない。そう考えてみた。のね。
凝りもせずにね!!!やんなっちゃうね!さみしくなっちゃうね、また!!
自分のポコポコ生まれる考えを言葉にするのは勇気がいるね。
このブログはそのために、頭の中の膿を搾り出すためにもあるってのに
全然慣れません。やっぱり、こわい。ある種のトラウマ。理解されないって、つらいね。
身近な人に耳を傾けてもらえないのは、本当にこたえる。
(世の中のお父さん、お母さん、子供の話に耳を傾けてますか?)
さーて、あえて続けます。3次元の私たちは、4次元があることがわかっていても
(4次元あるという可能性があるとわかっていても)
どんな世界なのかを肌で感じることはできない。でも・・・想像することができる。むつかしいけど。この上なくむつかしい。
わからないことを「わかるはずがない!」と放り出すのと
わからないことをわかった上で、その得体の知れない世界を
一生懸命想像して自分なりの考えを持つことは
まったく違う、と思う。そうやって意識して触れる世界は、全く違った景色になると思う。
私たちは身近な人の頭ん中ですらまるまるわかりっこない。
わかったつもりになることはあっても、それはありえない。地球の裏側の国で大切にされている宗教なんてわかりっこない。
本で読んだ知識はあっても、自分の頭の中で作ったイメージから抜け出せない。男の人は出産の大変さをわからない。(私もまだ体験したことが無い)
いくら口で説明されても、体験できるのは本人だけ。
わかりっこない世界との付き合い方のヒントが、
ここにあるんじゃないか、と思った今日このごろ。
宇宙論の仕組みに「おええーー」ってなったのもあの頃。
粒子を構成している、つまり世界を構成する最小の要素は弦のようなもの。
振動するひものように見えることから、ひも理論という名前が付いた。
振動の違いが、それぞれ別の粒子に対応していて、宇宙を形作っている。ひもが奏でる色々な音(波動)で宇宙が構成されているなら、
なんとも壮大な交響楽の中で生きてるんだな~と感慨深い気持ちになる。
昔読んだ膜宇宙論についての話の中で、(どこだったか思い出せない…)
「11次元の宇宙は私達の世界の1兆分の1ミリ隣にある」という一文があった。
それが本当に衝撃的で、ずっと頭の隅っこに残っている。手を振れば何次元もの宇宙を行きかってることになるはずなのに
感じ取れるのはこの世界だけ。不思議だ。
次元の例えでお気に入りなのは「丸い金魚鉢」のハナシ。
ある国には、「丸い金魚鉢で金魚を飼ってはいけない」という法律があるらしい。
丸い金魚鉢だと世界が歪んで見えるから、可哀そうなんだとか。
「丸い金魚鉢の中にいる金魚が見る世界が真実ではない」と言えるのは、
私達が金魚鉢の外の世界から金魚鉢を見ることが出来るから。
もし私が金魚なら、今見えている世界が嘘だといわれても、それが私にとって
全てであるわけだから、それは真実でしかないだろう。仮に突然変な生き物があなたの目の前に現れて
「可哀そうに、あなたが見ている世界は歪んでいる。
今見ているパソコンの画面は四角じゃなくて本当は丸いんだ」
なんて言われても、あなたが金魚鉢の中にいる限り
「ああ確かに私は可哀そうだ」なんて思わないんじゃないかな。
そういえば、大人も深読みするとめちゃくちゃ楽しめる児童文学『ライラの冒険』に出てくる「天使」も、そういう意味での「高次元の存在」として描かれていた。
「巨大な構造物のような存在」だったかな。うーん、なかなか核心を突いた表現なんじゃないだろうか。3次元の私たちを丸ごと見れる存在。
<フラットランド>の言葉を借りるなら、<ソート(思索)ランド>の住人。私たち<スペースランド>の住人からは、推し量ることはできても見て取ることはできない「思い・想い」も手に取るように把握できちゃう次元。
よし!今日はここまで!