小説というものは、誰々が何々をしてどうなったというふうに要約してみたところで、あんまり意味はないものです。
登場人物たちと一緒になってその世界を生きて、夢中になって読んでいる間だけ存在している。そこが一番小説にとって大事なことです。
ホロスコープが、ある人の一生分の物語を記しているからといって、「つまりあなたの人生(性格なり意味なり)こういうこと」と要約してもなんの意味も無いのかもしれない。
要するに、「要せない」ところに私らしさがあるのだから。
じゃあ、ホロスコープを通して、読み手は何を読んで、聞き手は何を聞くんだろうって考えた時に…
一緒に登場人物になって、その一幕の中を「生きて」みることもできるんじゃないか、って。
半透明のフィルムを重ねて奥行きが生まれる絵みたいにさ。
宿主の「今」見ている物語(仕事とか人間関係とか住まいとか夢とかあれやこれ)と、ホロスコープから立ち上げた物語と、他にもそのタイミングで偶然重なるいろんな物語を、まるっと全部「ひとつの絵」として重ねるのよ。
点と点を繋げて整合性を見出すってのとちょっと違う。合ってる部分を探したり、応用して役立てられるものとして引き合いに出すのでもなく。
まるごと含めたひとつの物語。
それこそ『千夜一夜物語』のごとく、物語の中に無数の物語が呑み込まれている枠物語を読むように。
コンステレーション(星座)は、バラバラに散らばる一見無秩序な点と点を結んだ先に見えてくる、大きなひとつのつながり。
それは点と点をつないだ線で終わらない。その奥には立体的な空間があって、いきいきとした動きがあって、さらにその奥(上)の次元に連続している。
物語がいくつも重なって、角度をかえて眺めるうちに、ハッとひとつのあるテーマを表現した作品が浮かび上がるような。
それぞれの着色やカタチが意味不明なあたりは、このアートの感覚が似てるかも!!
そしてその作品を、その全貌を見ることができるのは、たったひとりしかいない。そういう意味では、みんながそれぞれに選ばれし者。
私の物語に選ばれたのは、他でもない私ただひとり。
作者や読者の「目的はなんだ」とか「期待にそえるか」とか分からなくてもいいじゃない。わからないならわからないなりの生き方が、それを含めて物語をつくってるんだから。