2024年の四季図を並べて興奮。
秋分まで目を通したところでベビが起きちゃって冬至をまだ見れてないんだけど…
便宜上、秋分が裏だけど、それは「存在の現れ」である春分を起点にしているからであって。
「始まり」って言ってしまうと絶対的(固定的)なスタート地点のように思っちゃうけど、円環に始まりも終わりもないわけで。
これはあくまでも「ここを始まりとする」っていう視点を前提ルールとした身内ネタ的「始まり」。
んで、なんで「始まり」と訳されるかというと、それは「存在の現れ」を示す場だから。
始まりだから現れるんじゃなくて、現れるポイントを始まりとする、っていう定義。それか春分。
「存在の現れ」が「存在している」状態になるのは、その存在を認める(キャッチする)ものが必要。
光があっだとして、網膜でそれをキャッチしなければなにも見えないし、見られることはない。
空気が振動していたとしても、その振動によって揺らされる鼓膜がなければ音は聞こえない。揺らすものは、揺らされるものがあって初めて「振動」として存在する。
温度とか、匂いとか、時間だってそう。
動かされるものがなければ、動かすものもないし、触れられるものがなければ触れるものもない。
右があって初めて左がある、みたいな。
そいで牡羊座が、光が存在を現すポイントだとするなら、その光を受け取る網膜が天秤座だ。どう見るか?その光に何を見るか?
光そのものに色はないけど、光を受け取った網膜がその振動数に応じて色分けして「見て」いるように。
牡羊座と天秤座の同時進行のやりとりから生じる「何が見えるか」の横軸が牡羊座と天秤座、春分と秋分。
同じく人体で例えるなら何を感じて、何を求めるのか。状態に対して、動きの部分ですな。
この状態と動きを基本の骨組み(大雑把な全体像)として1年という範囲で縁取ったトキのシルエットの「姿(どんな姿をしてどんなふるまいをするのか)」を読むのが四季図。
そのトキの影の中に蠢く細胞たちがワレワレ。
で、そんなふうに読んでみると、春から始まって、夏、秋、冬…って展開として見るんじゃなくなってくるんだね。
線状の時間の流れじゃなくて、ひとまとまりの存在としての時間っていうのかな。それこそ物理的な※リアルな時間。
※「実感」してる時間は直線的だけど、時間そのものは(超ざっくり言えば)過去も未来も同時に存在しているから
ある一点から見ればそれは過去で、別の一点から見ればそれは未来。
永遠に共有されることのない「今」…そう考えると、時間の中に生きている限りニンゲンは孤独な存在だなぁ。。
寝る前のメモ。
そのうち解説くわえてリライトしよう。