私たちは一人一人が一つの実験なのだが、実験が何を試しているのかさえ私たちは知らない。

未来とはなにか

時間とはなにか

 

 

か〜ら〜の、

いのちとはなにか。

 

存在の理由とか根拠とか起源とかっていうよりも、事実こうして存在している(と思われる)いのちってのはなんなのか。

いのちの枠組みが生命でも精神でも意識でも人生なんでもいいんだけど、とにかくコイツはなにものなんだ?って問に対して…

 

 

それこそ要約的な解答は意味を成さないんじゃないかと思うんだよね。

 

小説というものは、誰々が何々をしてどうなったというふうに要約してみたところで、あんまり意味はないものです。

登場人物たちと一緒になってその世界を生きて、夢中になって読んでいる間だけ存在している。そこが一番小説にとって大事なことです。

 

 

ホロスコープが、ある人の一生分の物語を記しているからといって、「つまりあなたの人生(性格なり意味なり)こういうこと」と要約してもなんの意味も無いのかもしれない。

 

要するに、「要せない」ところに私らしさがあるのだから。

 

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じゃあ、ホロスコープを通して、読み手は何を読んで、聞き手は何を聞くんだろうって考えた時に…

一緒に登場人物になって、その一幕の中を「生きて」みることもできるんじゃないか、って。

 

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ニンゲンってなに?という問の答えを知りたいなら、ニンゲンを生きてみることだ。

姿形、行動パターン、特徴を色々と説明したところでそれは本当にニンゲンをわかることにはならない。

 

ニンゲンとして生きてみて、ニンゲンの中から世界をどう見ているのか経験して、他のニンゲンと触れて、何が起こるのか発見していくこと。

 

人生ってなんだ、いのちってなんだ、宇宙ってなんだ、も同じ。

家族ってなんだろう、愛ってなんだろう、も同じ。

 

こうあるべきだ(=こうあるべきではない)ってモデルがあるわけじゃない。

あるべき姿もそうでない姿も、どっちひとつの可能性として存在しているわけでしょう。

てことは、どっちも答えの一部だ。

 

 

生きることを通して、私は「生きているってどういうこと」を経験しようとしているのか、と思った次第。私にとっては深遠な問いでも哲学的思索でもなく、ほんとうに、ただ、「いのち(トキ)ってなんだ」なんだ。

だから、トキを生きてみる。

 

 

笑ったり、怒ったり、うんこしたり、落ち込んだり、バカやって情けなくなったり、無気力や自暴自棄になったり、うんこしたり。

 

 

それは、

明日、また明日、そしてまた明日と、

記録される人生最後の瞬間を目指して、

時はとぼとぼと毎日歩みを刻んで行く。

シェイクスピアマクベス

繰り返し繰り返し、めぐるなにか。

 

二度とない一瞬の、繰り返し。

なんて美しい矛盾!!この矛盾こそがいのち(トキ)の本質なんじゃないかって思うよ。

 

 

人生は歩く影法師。

束の間の灯火、哀れな役者、白痴の語る物語。

 

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この舞台をステージの外側から見ている観客ってのは、誰でしょうかね。

文字通り上の次元の存在(視点の外側にある視点って意味)で、神さまが見てるって表現でもいいのかも。

 

それはたったひとりの観客といいますか、たったひとつの世界そのものといいますか。

 

私という演者からすれば、私を見せる相手は同じく舞台上で出会う他の演者じゃあないんですよ。

 

あくまでも、観客は舞台の外にいるわけで。

 

この舞台(地球)にあがったキッカケは人それぞれのようだけども…

私はね、そのたったひとりの観客を、めちゃくちゃ楽しませてやろうじゃないの、って、思うのね。

 

 

いつか舞台を降りるとき

 

「うわー、見応えあったわぁぁ。おもしろかった!!!」

「いやぁ、あのシーンはね…」

なんてアフタートークで盛り上がりたい。

 

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「どんな競技にも同じことが言える。その競技は、行われているその瞬間にしか存在しない。俳優の仕事だって一緒。人は現実に行われたゲームのことしか知りようがないし、自分が知る世界のことしか知りようがないのよ」

トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー

 

私たちは一人一人が一つの実験なのだが、実験が何を試しているのかさえ私たちは知らない。

惑う星

 

というのもね、この記事の下書きを書いて眠りについたんだけど・・・

んまぁ、・・・見るわ見るわ(笑)

隣のベビーも眠りが浅くて1時間おきにふぎゃふぎゃ。

 

そのなかで面白かったハナシ。

ニンゲンを図示して教えてあげてるんだけど、その図が私たちが普通思い描く絵姿じゃないのね。

 

円筒がまず中心にあって、そこに円錐が重なってるイメージ。

関節部分に円錐のとんがりがあって、お花みたいに重なってる。

目が覚めてから(目が覚めたという夢の中で)解釈していたのは、あれは「動き=時間」も含めて図示しているからなんだって気づいた。

 

私たちの描くニンゲンの図は基本、3次元の二次元化でしょ。

それを、動きも含めて描くと、例えば肩から先の腕は可動域ぐるんと円錐形に描かれるわけ。だから、4次元的な表現なのかな、って。

 

 

うまく再現できないけど・・・

↑かなり単純化した図、円錐のお花が重なってるみたいで。
ニンゲンと植物は、やっぱり似てる!!!っておもったんだよね。

世界各地の伝承、神話、信仰で、植物(樹木)がニンゲンと兄弟、ニンゲン的な存在として扱われてるのも然り、って感じ。

実はすごく似てる。

 

上の図だとひとつずつの円錐で繋いでるけど、実際はこれが全方位に展開してて。関節の位置Aのとる可動域に対して次の関節の位置Bの可動域、みたいな。

だからこんな人形っぽくは見えない。

 

時間を含めた次元の世界の見え方って、想像しているよりもっと・・・「違う」様相なんだなって、夢の中で思った、そんな不思議な夜でございました。

 

 

書いてて思い出した。

先週図書館で借りた絵本。

昔イチくんが小さい時一緒に読んでたなぁ♡って見つけたとき懐かしくなって借りてきたんだけど。

 

子兎バニーが、ある日ふと「逃げたく」なっちゃって、ママに言うのよ。「ぼくにげちゃうよ」って。

 

川魚になって逃げちゃうよ。

あらあら、じゃあママは釣人になってあなたを釣り上げちゃおうね。

ママが釣人なら、山の岩になってにげちゃうよ。

じゃあママは登山家になってそこまで登ろうかしら。

 

ヨットになれば風になって帆を押し、鳥になれば大きな木になり枝を広げて帰りを待つ。何になったとしても、ぼくはぼくで、ママはママ。

なーんだ、じゃあいつもと一緒だ。じゃあぼくはママのこどものバニーのままでいいや。

さぁぼうや、ニンジンをおあがり。。。

 

そんなお話なんだけど・・・

あ、これ宇宙のハナシだったのか。

ってブットビ解釈が飛び込んできた(笑)

 

 

何にでもなれるし、何になったとしても、ママはママでぼくはぼく。日常の中に、非日常が生まれては消え生まれては消え、どっちがどっちでも同じ。

 

 

それにしても、昨夜は久々に「恐怖」した。

子どものとき感じた恐怖。何十年ぶりだ。

 

永遠に共有されることのない「今」…そう考えると、時間の中に生きている限りニンゲンは孤独な存在だなぁ。。

 

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夜に落としたこのライン↑がトリガーになったんだな。

「永遠」に対する恐怖っていうか。

 

コワイってのとちょっと違うかなぁ。

 

底が見えない、海の深いポイントで水に入ったときに感じたあの恐怖に似てる。足がつかないのはもちろん、光が届くギリギリ向こう側まで目を凝らしても何も見えない感じ。

 

死ぬのがこわい、未知がこわい、孤独がこわいってのとも違う。

なにがこわいっていうか、「こわがらないといけない!」ってこわがってる感じ。こわいを手放すのがこわい、みたいな。もしこわがらなかったら、私は向こうに吸い込まれてしまう。

 

 

幻であるもろもろに、「かなしい」って感じた。

「愛(かな)しい」。悲しいというか愛おしいというか。

 

 

仏教の「慈悲」でいう「悲」は、苦しみを取り除くって意味があるらしい。仏教的に言えば苦しみは全部幻(への終着)が由来だって説くわけだから、なるほどだ。

全部まぼろしだ、と思った時の悲しさ、愛おしさ。

救いは、かなしさと共に。

 

 

昨夜は、とにかく、そんな感じ。

ブログは相変わらずクレイジーだけど、私本人も相変わらず俗にまみれて堕落気味の熟したおじさん系おかんですからご心配なく!

 

なんでかな??と不思議だったんだけど、そういえばフィッシー𓆝な新月でした。魚(うぉ)!!

 

 

そして星の読書会、またしたいしたい𓆝とピチピチ魚が跳ねる。

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2年前だったかぁ・・・!!!

 

非リアルタイムのオンラインでできやしないかと。

そう!!往復書簡↓的な!!!

 

 

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船ができあがってないのに、乗組員募集するのってどうよ??って思って全然発信できてないんだけど。

 

 

例えば四季図を母艦に、乗組員はそれぞれ自分の海域をサルベージする。

引き揚げたお宝を見せ合う。

このあたりが【星の読書会】のコンセプトともつながるんだけど。

 

この状態と動きを基本の骨組み(大雑把な全体像)として1年という範囲で縁取ったトキのシルエットの「姿(どんな姿をしてどんなふるまいをするのか)」を読むのが四季図。

そのトキの影の中に蠢く細胞たちがワレワレ。

 

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だけど今度は、解釈したり結びつけたりはしない!

ただ漂ってきた連想の、浜辺に打ち寄せられた漂流物みたいなナニカを共有してみるのも楽しいんじゃないかなって。

 

例えば・・・

私が四季図の大きなシルエット(海図)を出すでしょ。

そいで乗組員が季節ごとにそれぞれ担当海域に乗り出すわけ。

アストロダイスで割り振ってもイイし、ネイタルを元に決めてもイイ。

なにか個人的なテーマやイメージを持って、自分の船(日常)に戻る。

 

そんでどこかに区切りを設けて、母艦に調査報告をする。

それは文章でも絵でも写真でもいいんだけど。

私はそれをまとめて会報として発行する。

 

乗組員はみんなそれぞれの海を航海しているから、しっぽり顔を合わせたり言葉を交わす機会はめったにないかもしれないけども、会報を通して同じ海域を調査する仲間。

 

そうだな、四季図の1年。

1年間固定のメンバーで。

 

これを今年2024年でスタートしようと思うと急ピッチで内容を固めないといけないな。。。募集も間に合うか。

そうだよ、船がまだないのに乗組員を募れるのかって問題。

 

ああ、でもおもしろそう。

このプロジェクトについてはは別記事で改めてケンショーしよう!!

 

「俺たちは本というものを解釈するだろ? それは本に対して俺たちが意味を与える、ということだ。それはそれでいいよ。本というものが俺たちの人生に従属していて、それを実生活に役立てるのが『読書』だと考えるなら、そういう読み方は何も間違っていない。

 

でも逆のパターンも考えられるでしょう。本というものが俺たちの人生の外側、一段高いところにあって、本が俺たちに意味を与えてくれるというパターンだよ。

でもその場合、俺たちにはその本が謎に見えるはずだ。だってもしその謎が解釈できると思ったなら、その時点で俺たちの方がその本に対して意味を与えていることになってしまう。

 

それで俺が考えたのはね、もしいろいろな本が含んでいる謎を解釈せず、謎のままに集めていけばどうなるだろうかということなのよ。

 

謎を謎のままに語らしめる。そうすると、世界の中心にある謎のカタマリ、真っ黒な月みたいなものが浮かんでくる気がしない?」