門の向こう側の音、真っ暗闇の中の光

今朝は十一講、十二講のテーマ『平家物語』を。

 

第十一講のタイトルは「音の文学」

平家物語は音の描写がすごく特徴的で、視覚表現よりも力を入れている印象。例えば合戦の場面で描かれる「鬨(トキ)の声」のすさまじさであったり、闇夜に起こる怪異現象であったり。

 

 

怪異現象の例に「頼政の鵺(ヌエ)退治」のハナシが出てた。ヌエって文字通りイメージするなら、猿×虎×狸×蛇×鵺ボイスのキメラ・モンスター。こいつをやっつけた褒美に「師子王」って剣を頼政は授かる。漢字は違うけど、獅子王(ライオンキング)のことなのかな?

 

今並行して読んでいる小説『獅子王アレクサンドロス』を思い浮かべたよ!

この読書記録を書き終えたら、次はこっち読もうと思う。

私、あっちこっち飛び移りながら読む乱読が好き。全く関係ない分野の本でキーワードがいきなり繋がったりするのが、楽しい。

 

乱読のセレンディピティ(思いがけぬ偶然の発見、幸運)ってやつだね☆彡

 

そして続く第十二講が「闇の文学」

どうして「平家物語」には音の描写が多いのか?

そのキーワードは「闇」にある、ってのが安田せんせの説。

 

武士は闇の存在で、裏社会の住人だった。ここで紹介される平忠盛のエピソードが、なんとまぁ893的スゴミがあってオモシロイ。

まだまだ武士の階級が低く見下されていた時代に、特権階級と同じ待遇を受けられることになった忠盛。貴族はおもしろくない。マロたちで闇討ちしてボコッてやろうぞ!って張り切って作戦たてたんだけども、そこは闇の何たるかを知り尽くした裏社会のドン・・・

 

闇討ちってのは、こっちからは相手が見えないのに、相手に自分は見られてるっちゅう、どう考えても不利な状況なわけですよ。

その状況を逆手にとった忠盛は、「敢えて見せる」ことで場の流れを自分のコントロール下においた。お見事な演者っぷり。

 

モーニング姿に正装した893の頭が、危険物持ち込みお断りの場所でわざとらしく胸元にドスをきらめかせる。そんでもってふいにそれを取り出して刃先に光を反射させながら、自分のもみあげらへんをピタピタとなでつける・・・

 

こっわ!!!忠盛、こっわ!!!!(笑)

 

もちろん、刃物持ち込みお断りってルールには触れない「しかけ」も準備してあって、この事件がきっかけでお上に更に気に入られ昇進するっちゅう展開。

 

平家物語の中で対比される、貴族と武士、ふたつの世界。

これは表舞台と裏方のせめぎ合い。光(貴族社会)と闇(武家社会)の転換の物語。みなさまご存知の通り、平家は貴族社会を乗っ取り、闇の住人だった自分たちが光の世界の住人にとってかわった。

そののちにまた、新たな闇の支配者となった源氏にとってかわられ滅びてしまうわけだけど。。。

 

YinYang


光の中の闇、闇の中の光。

平家物語」は闇の世界を描く

 

それは語り手が盲目の琵琶法師だったからかもしれない。

彼らは光(視覚)の代わりに、音で世界を聴く

見えていないからこそ、聴こえる世界の解像度が高い

 

盲目の楽人は、霊的な役割も担っている。

目に見えないものを聞き取るチカラがある、と思われていたからだろうか。目に見えないものは「見る」対象なんじゃなく、「聴く」存在だったのかもしれない。

 

それを思わせるのが、古事記の超有名シーン、アマテラスの岩戸隠れ。

引きこもっちゃったアマテラスに出てきてもらうために、岩戸の前でどんちゃん騒ぎをしたってあのハナシ。あのシーンは「万の神の声が満ちた」と表現されている。

 

日本の古典をケンキューしていた本居宣長は、ここの「声」という字を「おとない」と読んだ。「おとない」ってのは、訪れるってこと。「訪」は「おとなう」って読む動詞だよね。

 

神々の「声」は、目には見えない神や霊力の「おとない」、訪れである。訪れは「音づれ」でもある。音を連れてくる

 

あちら側の世界とこちら側の世界の境目、ゲート()に「づれる」神霊の声。それを聴く場が「闇」だったんですな!

 

それから、盲目の「楽師」ってのもポイント。楽器を持ったミュージシャンってのは、古代中国の祭祀、儀礼でも霊的な役割を担っていた。音を聴く、そして音を鳴らす。

目に見えない世界と目に見えている世界ってのは、双方向の「音」の交わし合いがあって交流できるものなのかも。

 

そう思うと、歌がコミュニケーションの根源だって説も深みが増すなぁ。

力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、

目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、

男女の仲をもやはらげ、

たけき武士の心をもなぐさむるは歌なり。

古今和歌集

 

天地、あの世系の存在、異性、いきりたって絡んでくる輩、そういう「全くハナシが通じない」コミュニケーションがムズカシイ連中であっても、心をやわらげ、動かすこともできるのが歌である。

 

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文字記号としてのコトバじゃなくて、音を乗せたメッセージとしてのコトバに、境界線を越える力があった。空気が振動する音、肉声、身体に結びついた言葉だから言霊になる。

 

以上、安田登せんせの『野の古典』第十一講(音の文学)、第十二講(闇の文学)を読んで「こいつぁ、おもちろいッッ!!」と感じたキモチの失せぬうちにブログに記録した次第であります。

 

ほんとはね、「音」でこれを出そうと思ったんだ。。。

音のハナシだし、始めるにはいいテーマじゃないか!と、ポッドキャストでこの内容をね(;ノωノ) でも・・・

文字なら一気に書き上げられるのに、声に出そうとすると1~2行も進まない(笑)

「ブログ(文字)で書いたもの→読み上げ」から練習してみようかな。

 

声の配信してる先輩方、番組おしえてね♡ 聴きに行くよー!!

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そうそう

声のコンプレックスを乗り越えると、人生が変わるらしいよ!

⇩以前教えてもらった本、これもおもしろかった♡♡

 

「闇」だ「死」だとネガティブ(一般的なイメージでは)なワードが連発されてる今日この頃・・・(笑)あのデッキとかね( ´艸`) 心境的には、コトバのイメージと対照的にすごく軽くてあっさりさっぱりな楽しさなんだけども。

 

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闇の中にこそ本当の光があると教えてくれるのが『平家物語』なのです。

野の古典