今日は午前中、眠気が抜けずにぼーっとしてたから、潔く寝ることにした。朝からたっぷりカレーを食べて満腹になったからかなぁ。わんさか夢を見て、目が覚めて、お昼になってた。
今日はこの本。
オーストラリアの先住民、アボリジニの世界を巡る旅。
アボリジニの天地創造の神話は、”夢の時代”(ドリームタイム)に大陸を旅した伝説のトーテムたちの物語。トーテムたちはその道々で出くわすあらゆるものに名をつけ、歌いあげ、世界を創りあげていった。
歌で始まる世界!
力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、
男女の仲をもやはらげ、
たけき武士の心をもなぐさむるは歌なり。
― 古今和歌集
天地を動かすチカラ=歌
その歌い手が、アボリジニでは様々なトーテムだったのね。動物や虫のトーテムは、それぞれに世界を創造した。アボリジニは自分のトーテム(一族のルーツ)を持っている。
日本の和歌は重なり合う情報(視覚情報、聴覚情報、嗅覚、心境、願望)をZIPした「魔術」だったわけだけど、アボリジニの歌は自分たち一族の情報をZIPしたものなのかな。
自分のトーテムがワラビーだとしたら、こう表現するんだって。
「私はワラビーの『夢』を持っている」
ステキ・・・
昨日の過去記事でまさに、和歌(歌)はまるで「夢」ってはなしを書いてた。
アボリジニにとってトーテムの「夢」は一族の紋章、土地の区別以上の情報がつめこまれている。
すべてのものは「夢」になりうる。ウイルスも、雨も、シラミも、水疱瘡も、それぞれに「夢」を持つ。夢を捉えたものが「歌」ってことかな?
歌は地図であり、方向探知機でもある。
オーストラリア(彼らの住む大地)はそのまま楽譜のように読み解くことができる。歌の道は目に見えないけど絡まり合っていて、ひとつひとつが「物語」を持っている。
「聖地」というのは、一種の物語。
歌は存在である 存在は歌である
歌うことで世界を創造した、歌われることで初めて世界が存在する、という世界観は仏教の感覚にも近い。知覚されるから存在するって意味で。
まだ歌われていないもの、知覚される以前の存在には、過去も未来もない。
そういうものも全て、この先発明されるであろう全てのものは、地面の下で眠っていて呼び出されるのを待っているんだ、って視点がすごいスケール。
似たような世界観をうたう詩として、ちらっとリルケの名前が出てきた。
気になって調べてみたら、とっても素敵な翻訳サイトを発見。
ぼくたちの存在が
遙かな大地や満天の星空のようだとしたら?
草原に寝転がり 夏の星座を眺めている
若者よ 世界にむけて差し出された愛が きみの喉をひらき
そこから声=詩があふれ出たとしても
それは ほんとうの歌とは別のことだと知っておいてほしい
ふるい歌声は忘れてしまおう すへでは儚く消えてゆく
ほんとうの歌は息のようで 目的もなく探すこともしない
こころが静かに息をしている 世界が呼吸している
神様の息吹を思い描いてごらん
そんな風のなかに ぼくたちは生きている
まだまだ、読み始めたばっかりでソングラインを辿る旅は始まらない。
少しづつブログにもメモしながら、歌の道の旅をなぞりたい。
午後、不動産関係のトラブル。
1年前の今頃も、似たような状況であたふたしてたなぁ。オバサン化がすすんできたせいか、何度目かのトラブルで慣れたのか、不安でオソロシイ心境に悩むってほどじゃない。
困ったなぁ、とは思うけど(-_-;)
そうだな、トラブル発覚前にたっぷり眠っておいてよかった!!身体は危険シグナルを察知していたのかもしれない(笑)
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ぱうぱう