(この記事の続きに書いてた内容、あんまりに長く続きそうだから別記事に分けた!)
そういえば!!ハンバートハンバートのアルバム『まっくらやみのにらめっこ』ってのがあったな!って思って。
収録曲
1.バビロン
2.枯れ枝
3.大宴会
4.荒神さま
5.国語
6.遊びの国
7.透明人間
8.街の灯
9.静かな家
10.白夜
11.おいらの船
12.はつ恋
バビロンといえば「バベルの塔」だよな・・・と思って久々にきいて、胸をえぐられた。笑
ことばあそび、ことばさがし。
ここで出てくる「ぼく」と「わたし」は・・・ああ、アンサーソングか!とニヤニヤしてしまう。くりかえす、それだけ!この世界のすべては伏線、歌合戦!もうこのコトバ聞き飽きた?
荒神さまも、見えないところから聞こえてくる「声」の歌。ごくつぶし、ってわたしのことやん( ´艸`) 自分のきかないようにしていた声ともとれる。心のどっかで思っていた後ろめたさ、みたいなものは「誰かの声」になって届くからね。だとしても、この荒神さまは、なんというか、ゆるい(笑)なんかゆるくて優しい。
遊びの国も好きだなぁ。
でもハンバートハンバートでキューっとくるのはやっぱアレだ、「おなじ話」。女声と男声のかけあいにどことなく感じる違和感。
恋愛ソングとしても聴けるけど、私は不思議な違和感に「あっち側とこっち側」のやりとりを感じたよ。向こう側からは見えてて、私の声も聞こえているのに、私からは見えないし聴こえない。一生懸命、返事してくれてるのに、私たちには聞こえていない。
そんなマジックミラー越しのようなやりとりを思い浮かべたよ。
そういうあっち側の「声」を、こっち側に通してくれる人っているじゃないの。日本でいうイタコ的な。西洋で言うミディアムシップ。
ミディアムシップの精神哲学、私はなじみがないもんで「ん??」って思う部分もあるんだけど、「向こう側には全て見えていて聞こえて(届いて)いる」っていう世界観の前提について、この歌を聴いていて思い出した。
どこにいるの? 窓のそばにいるよ
何をしてるの? 何にもしてないよ
そばにおいでよ 今行くから待って
話をしよう いいよ、まず君から
どこにいるの? 君のそばにいるよ
何を見てるの? 君のこと見てるよ
どこへ行くの? どこへも行かないよ
ずっとそばにいるよ
それから 僕も君を見つめ
それから いつもおなじ話
あっちには私の声が聞こえていて、見えてる。
でも私から相手は見えないし、その返事も聞こえない。
これって・・・「闇討ち」の構造じゃないか(笑)
どうして「平家物語」には音の描写が多いのか?
そのキーワードは「闇」にある、ってのが安田せんせの説。
武士は闇の存在で、裏社会の住人だった。ここで紹介される平忠盛のエピソードが、なんとまぁ893的スゴミがあってオモシロイ。
まだまだ武士の階級が低く見下されていた時代に、特権階級と同じ待遇を受けられることになった忠盛。貴族はおもしろくない。マロたちで闇討ちしてボコッてやろうぞ!って張り切って作戦たてたんだけども、そこは闇の何たるかを知り尽くした裏社会のドン・・・
闇討ちってのは、こっちからは相手が見えないのに、相手に自分は見られてるっちゅう、どう考えても不利な状況なわけですよ。
その状況を逆手にとった忠盛は、「敢えて見せる」ことで場の流れを自分のコントロール下においた。お見事な演者っぷり。
忠盛に学ぶなら、敢えて「見られていることを意識して振る舞う」ってのが生者のとるべき行為ってことになる。俺っちを見ていることは、わかってるんだぜ。
あなたは私を分かっている。
私はあなたが分かっているということを分かっている。
あなたは私があなたのことを分かっているということを分かっている。
私はあなたが私があなたを分かっていることを分かっているということを分かっている。
あなたは・・・(以下同上)
つまり視点の繰り上げ。
次元を上げるってこと。
そうやって生ける者の世界は大きくふくらむ。
それがホントかどうか、本人なのかどうか、証明しようはないけれど。そうやって故人を思い出して、偲ぶ行為ってのは、生きてるニンゲンに必要な営みなのかもしれない、と思ったわけです。
そのために節目の行事って世界各国今も昔もあるんだよね。
私は行事ごと、全然できてなかったから、敢えてこういう機会を設ける必要があったのかも。普通に文化的な暮らし(お盆とか正月とか家族のだんらんとか)をしてたら、気にしてなかっただろうし。
「自分は切り離された生命(存在)じゃない」という「体感」。
それが薄れるから、苦しくなるんじゃなかろうか。
現代にはびこるさみしさってやつの正体は。
そういう一方的な視点を感じようが感じまいが、「ある」という前提で生きることは、なかなかに意味のあることだと思うのです。生きるうえでね。
メメント・モリってやつさ。
ボルタンスキーの作品は、初期から最新作に至るまで、一貫して個人的・集団的な記憶や生、不在、死などを扱っています。
彼が用いる写真、電球、古着、心臓音、風鈴といった素材は、無数の人々の生きた痕跡であり、不在の隠喩であり、彼らにまつわる記憶を(時には忘却の事実を)召喚するためのささやかな仕掛けでもあるといえるでしょう。
芸術家の役割は「死者に捧げる儀式を行うこと」と語るボルタンスキーは、作品を通して、人は誰もがかけがえのない存在であること、同時にとても儚い存在であることを語り続けています。
「メメント・モリ」で過去記事を検索してみたら、これが出てきた。まさか音声配信の過去記事が出てくるとは・・・音声うんぬんについて描いたブログの続き記事(もともとはひとつの記事を分割したんだけど)だからこそ、ウウムと思っちゃう。
ボルタんすきーが芸術家の役割は「死者に捧げる儀式を行うこと」って言ってるけど、これは安田登せんせが『平家物語』を通して言ってる主張と同じ。
能をはじめとする日本の芸能は、死者の魂を慰めること、「鎮魂」の役割を果たしていた。音(楽器)で呼び出された神霊の声を聴き、その存在を思い出して慰める(慰められる)こと。
「鎮魂」は死者のタマシイのためだけじゃない。
生きている私たちのためにある。
思い出されて、存在を確認されること。声を聴いてもらう、受け入れてもらえること。そこで起こる「癒し」のチカラは凄まじい。
死者をカタシロにして、私たちは自分の中にある「切って捨てられ、殺された死者になった自分自身」を思い出す。その声を聴く。過去の自分を昇華して、先に進むことができる。
「目に見えないあっち側のものを、再現して繋げる」って働きは「感情に名前を付ける」ってテクニックにも通じるね。これもあの世とこの世のコミュニケーションと同じ構造。
一方通行のコミュニケーション構造を、それを利用して抱え込む。忠盛みたいにね。闇もおそるるに足らず。そうやって、我が世界の一部にしようじゃないか。
いや、むしろ闇の一部に自分がいるのか。クジラの腹の中か。
ふと、思い出す側だけじゃなくて思い出される側にも「癒し」が起こってるんじゃないかと思った。フォトンワークの双方向に影響があるってのは、そのへんのエネルギーの動きを言ってるのかもしれない。
最近、家族って本当にありがたくて心強いなぁって思う。どうしてるかなーって思うだけで元気もらえたり頑張れたりするし遠くても近くに感じる。
子供達生んどいて本当に良かったわ😊
パパと知り合って40年、お陰様でいまだ日々笑って仲良くしていられる事にも感謝。
母からのLINE読んで、そう思ったの。
信楽焼の狸みたいな体型のお年頃になっても、私は「お母さんの娘」なんだな。誰かから生まれてきてる時点で、当たり前だけど、永遠に誰かの「子ども」。
ニンゲンみんな、「母」という具体的な存在の向こう側に「グレートマザー」っていう抽象的な宇宙の構造を見出すってのも、なんかわかるかも。
私は、あぁ今日も生まれてきてよかった、って思って朝目を覚まして、夜眠るよ。
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