澁澤龍彦せんせの射手座ロマンあふるる哲学書(笑)は、金星が射手座のうちに書かねばなるまい!!!
最初のひとことが「人生に目的なんかない」で始まるのがもう、たまらんね。しびれますね。
人生の目的はと問われてすぐ返事ができる人は、なんか宗教を信じているんでしょうな、と。
タイトルが「快楽主義」でこんな出だしなもんだから、ひねくれたニヒリズムの「今楽しければいーじゃない」って投げやりな内容なんじゃないかと誤解されること間違いなし!(笑)
そう、誤解。
この人、わざと誤解されてなんぼなコトバで読者を煙に巻こうとして楽しんでるな…とだんだん分かってくる。
そのイタズラっぽいニヤニヤを文字の向こう側に感じて、こっちもニヤニヤしちゃうエッセイ。
誤解されてなんぼ。
むしろすすんで誤解の材料をいっぱい提供して、煙幕をもうもうと立ち上げちゃって、真実の姿を隠してしまう方が、気がきいてるでしょ。
こういう人を「ミスティフィカシヨン(韜晦、とうかい)」っていうんだって。
このユーモアセンス、憧れちゃうわ(笑)
幸福よりも快楽を。
月のフレームの中に一生懸命留まろうとするんじゃなく、金星の冒険に出ようじゃないか。
そんなハナシやで。
それは自分の上に何かを置くことなしに…
例えば人間世界を超越した存在(神や天使や〇〇樣といった類の)を指針にするんでなく
ニンゲンであるわたしのために、ニンゲンらしいニンゲンの生き方を、等身大の生きる悦びを
自分の力で作り出さんでどうすんねん、追いかけんでどうすんねん、
そういうハナシなんです実は。
ただし、ここでいう「等身大」ってのは「わたしの可能性を小さく制限する」もんであってはならんのです。
そんなアホらしいことはない。
目指すは快楽。
私自身が、私の精神と肉体を通して味わい尽くす快楽。
もちろんそれは、与えられた娯楽やレジャーではありえない。
多数派であってもなくても気にするな。
道徳なんて気にするな。あれは偏見のコレクションなんだから。
ところどころ過激な主張にビックリするだろうけど、芯にあるのはなるほど「内なる自然を忘れたニンゲン(人生)なんてクソつまらないだろ」って眼差し。
射手座の下半身は馬、動物的な本能で、自然の中を駆け回る脚。
賢者の下半身を垣間見れる、大真面目な顔してふざけた哲学書(笑)
ああ、青春を有している間に、その青春を実現したまえ。
退屈な連中に耳をかしたり、
手もつけられないほどの失敗をなんとかしようとしたり、
無知な輩や凡庸の徒にきみの生命を与えたりして、
きみの黄金の日々を使い果たしてはいけない。
それらは現代の病的な目的、虚偽の理想なのだ。
生きたまえ!
きみのうちにある驚くべき生を生きたまえ!
なにものも自分の身から奪われぬようにしたまえ。
いつも新しい感動を探していたまえ。
なにものも恐れてはいけない。
新しき快楽主義――これこそ現代の求めるものなのだ。
快楽は自分の限界を破り、自分の能力を拡げる。
それは冒険、それは発見。
もうこの視点が木星のエネルギーを体現する射手座の世界だよねぇ!
汝自身を知れ?
謙遜のふりをした傲慢ほどたちの悪いもんはねぇ。
苦心する毛虫はいつまでたっても蝶になれはしない。
自分にふさわしいこと、ふさわしい世界、ふさわしい喜びを自分で決めてしまって冒険しなくなる呪いのコトバに囚われることなかれ。
いいかい、快楽は自分で味わってみないことには何もわからない。
新しい快楽は自分で味わい、自分で発見すべきものなのです。
等身大の生きるよろこびを自分の力でつくりだす、おいかける。
それは難しいことじゃない、と快楽の巨匠は言う。笑える先人たちの例をふんだんにとりあげて。
(私のお気に入りはディオゲネスの逸話♡)
人間は、それぞれ自分の生活から何を要求し、生活のなかで、どういうことを実現したいと選んでいるか、―こう考えれば答えはあきらかです。
快楽主義、本能と欲望に忠実に…ときけば、西洋的な贅沢三昧や成功やお金に対してギラギラ脂ギッシュなイメージがあるかもしれない。
でも、ここでいう快楽主義ではそういう脂っこい欲望もひとつの極端な例として挙げつつも、正反対の東洋的快楽主義も挙げられている。
東洋的な快楽主義は、出家や隠者の姿で登場する。
どちらにしても、形式的な道徳や空虚な理想に「そういうのは結構です」と意思表示してるってこと。
牡牛座の天王星ですな。
よろこびを、五感を通して味わう自分のための快楽を、社会の形式から解き放つ。
牡牛座と裏表になる蠍座も、もちろん快楽とは切っても切れないテーマでありまして。
それは性、そしてタブー、死にまつわるはなし。
澁澤せんせは「性」を、道徳的にいかがなものかと社会が眉をひそめるものであれ「快楽」の外せないテーマだ!と熱弁する。
間違いなく男の人視点だから、女性諸君にはえーっと思われる内容かもしれない(笑)
私ら側の快楽はどうなの?って。
でもそれこそ自分で開発したまえ、ってことなんだよね。
性についてはまだまだ語るのに抵抗がある我々だけども、「死」はどうだろう。
「死はなにものでもない」と指摘したエピクロス。
そもそも死ってのは、生きてないってことでしょう。生きた感覚がシャットダウンした状態。
善悪や快不快は感覚に根ざすものなんだから、シャットダウンされてる死には善悪も快不快もない。
※スピリチュアリストは轟々と批難するでしょうが、この視点もまたオモシロイと思うのよね
生老病死の苦しみなんていうけど、死が苦しみのうちに入るのは生きているうちだから。
その思想が極端な方向に走っちゃうと、死こそ究極の安息、と生を早々に切り上げようとする思想も出てきちゃうんだけど…
なんにしても、澁澤龍彦は快楽主義者として「死」もまた自分の快楽のひとつとして大切にしている。
たいせつな自分の死を、資本家連中に預けるな。
自分の手ににぎって誰にも譲り渡すまいとかたく決意せよ。
命短し恋せよ乙女、赤いくちびる、あせぬ間に…
青春は終わったというなかれ。
どこかの誰か、社会が決めた「何歳から何歳が青春です」なんて放っておけ。
澁澤龍彦は「快楽」を動物的本能、自然の生命力だという。
エロスであり、無邪気な子どもの心でもある。
自然のあらゆる努力は、すべて快楽に向けられる。
自然は草の葉を育て、木の芽をひらかせ、花の蕾を咲かせる。
花冠を日光の接吻に供え、生あるものすべてを婚姻に抱き、
痴鈍な幼虫をサナギに変え、まゆの牢屋から蝶を飛び出させるのも、自然のしわざである。
…さればこそ、ぼくは、快楽のなかに、書物のなか以上の教訓を見出したのである
快楽に生きた先人の例のひとり、カサノヴァは「ただ行動する人」と評される。
隠者でも世捨て人でもなく、理想や大義を語ることも不平不満を言うわけでもなく、英雄でも豪傑でもなく、ただひたすら陽気に、あけっぱなしに、自分の「オモシロイ!!」に足取り軽く飛び回っていた人。
紹介される先人たちからね、射手座のダメダメっぷりと愛嬌と底抜けの明るさを感じるよね(笑)
人は自由である。
しかし自分が自由であるということを信じなければ、もはや自由ではない。
(カサノヴァ)
ユーモアとは快楽の源泉である。
そこにはユーモアがある。だから射手座の「善」は重苦しい説教にはならないんだよね。
なんか、アホなことを大真面目に言ってる(そして実は真面目な顔でそれを面白がってる)司祭さま、そんな感じさ。
ほんとうのことを繰り返し喋ったってしかたないじゃないか。
だいいち、ちっともおもしろくない。
いいかい、この世には2つの世界がある。
ひとつは現実。話さなくても存在してる、わかっている世界。
もうひとつは、芸術。これは話さなければいけない。
話さなければ存在しないんだから。
アタラクシア、精神の貴族たれ!!
人生には目的なんてない。
だから、覚悟を決めて、自分でつくりだせばよいのです。
ケツをまくって、この人生に居直ってやればよい。