主人が休みの日は、イチくん朝勉の時間&ベビ抱っこ紐で見ててもらえる!冬休み最高!!ここんとこ毎朝カフェタイムでブログが書けてるのはそういうわけです。
読書メモをせっせとしたためる今日このごろ↓
昨日読んだのは、ファンタジーの巨匠であり民俗学者でもある上橋菜穂子せんせのエッセイ!
上橋せんせの小説で有名なのは『守り人』シリーズかな!
アニメ版、映画版と出ておるけど、やっぱり原作の面白さよ。
出会ったのは小学生のときかな?
普通は重なり合うことのないもうひとつの世界、その世界と接点になってしまった(ある生物の卵を産み付けられた!!)っていう不気味さとドキドキ感に夢中になったよ。
大人になってから続編をまた読み進めたんだけど、昔読んでた頃は全く意識してなかったクニ同士の関係(政治、駆け引き、平和や正義)の面白さも楽しめて。
さすが民俗学者・・・マジョリティ(大国)とマイノリティ(小国)、信仰や習俗の境界線で起こる葛藤、変容、ニンゲンや社会の成長・・・
物語に盛り込まれたあれこれの裏話、上橋せんせが経験したフィールドワークや故郷、祖父母との思い出などなどが盛りだくさんの語りおろし物語。
上橋せんせが出会った本や物語も、本書で語られているものいないもの含めて巻末にリストで出てて、わたしの読みたい本リストがまたふくらんだ(笑)
小説はフィクションではありますが、格好の思考実験の場であり、その仮説が「生身の人間の人生」としてありえたかどうかを試してみる、よきシミュレーション装置だと私は考えています。
ファンタジーの世界ってのは、目の前のリアルな現実(A)をとことん見つめた目を、ずんずんずんずんズームアウトして、めちゃくちゃ大きな枠で捉えたあとで、そこからまたピントをずらしてかなり至近距離までズームインした現実(A’)なんだと思う。
だから目の前の現実とかけ離れている世界を空想世界に描いているようで、実はそうじゃない。全く同じ世界を、ほんの少しずらしただけのリアルな現実なのかもしれない。
別の層の現実というか、パラレルワールドというか。
上橋さんにとっての物語は、現実逃避の夢の世界(幼い頃はそうだったかもしれないけど)じゃない。この先に何が見えるのか?迷いながらよいしょ、よいしょ、と登っていく。
物語は、見えなかった点と点を結ぶ線を、想像する力をくれます。
想像力というのは、ありもしないことを、ただ空想することとは少し違う気がします。
こうあってほしいと願うことがあって、どうやったらそうなるのだろうと、自分なりに線を引いてみること。その線が間違っているかどうかは、きっと、現実が教えてくれるでしょう。
その「願うこと」の中に、「境界線の向こう側にどう橋をかけるのか」ってのが民俗学者らしい視点だなぁ!と思った。境界線の向こう側は、向こうから見ればこちら側で。
クニとクニの境界線は超えがたくても、ニンゲンとニンゲンとして向き合えばもしかすると道が見えてくるんじゃないか?
どちらか一方の側からだと見えない景色がある。境界線上にいる人は、そのどちらも見えるけどもそのどちらにも属せない孤独がある。
上橋せんせの物語には、そういう「境界線上」の視点で生きるキャラクターがよく登場する。理解してもらえない孤独、結論めいたことを言うこともできずに、それでもじっと考え沈黙している人たち。
異なる世界の人達が出会ったら、お互いの向こう側からの視点が交差したら、そこから何が始まるだろう?支配と被支配、破壊や憎しみだけではなく、背景の異なる者同士がいかにして境界線を超えていくのか。
どちらか一方が正しいと信じこんで、疑いもしない人間は、もう一方を、理解しがたい他者として糾弾して排斥しようとするかもしれない。理想を掲げて声高に自分の主張をする人間は、しばしば、そういう己の傲慢さに気づかないものです。
相手を否定したり、恐れたり、あるいは自分の領分を守るために境界線を強くするのではなく、境界線を超えて交わっていこうとする気持ちを持てたら、どんなにいいだろう。
境界線の向こう側には、まだ見ぬ地がある。
もしかしたら「生きる」ということ、それ自体が、フロント=最前線に立つことなのかもしれない、と思ったりします。
それぞれの生い立ちや境遇や、すごくいろんなものを抱えて、私たちは、いま、出会っている。誰もが自分の命の最前線に立っているのなら、それぞれに境界線を揺らす力、境界線の向こう側に超えてゆく力を持っているんじゃないか。
これは、大きな関係性だけじゃなくて、わたしとあなたの関係性でも当てはまるよね。7ハウスの挑戦。その先に変容の8ハウス、そして希望の9ハウス。
だからラブ・フォア・ディスタンス
遠きものへの憧れ
私は、それを自分で紙に書いて、最後に別の言葉を足しました。
そのための一歩を踏み出す勇気を
ふふふ、昨日に引き続き射手座的なメッセージ。
本を読むって冒険が、射手座だもの。
冒険と言えば今読みたい本リストの中の候補本にあるこれも。。。
昨日の『快楽主義の哲学』が射手座の金星なら、今日の本は射手座の土星だな!!
境界線の向こう側にあるのは、11ハウス。新しいタイムライン。
11ハウスの「私たち」は、境界線を超えた先の私たち。元こちら側の私たちも、元向こう側の私たちも含めた「私たち」。
いくつかの言語には、相手を含む「私たち」と、含まない「私たち」が違う語として別々にあるんだけど、日本語はどっちも一緒よね。
私が言う「私たちには善き未来を共創するチカラがある」の中の「私たち」は、相手も含むほうの語です。
私たちVS私たちの関係性で目立つ葛藤が、マジョリティとマイノリティの衝突だよね。先日の満月でもピックアップされていたテーマ。満月のシンボルが「列車に破壊された車」だった。
かつて日本が「お国のために」と戦争に突き進んでいったように、何かを守ろうとすることは、時に他者を破壊することをよしとしてしまうほどの強さを持ちうるのです。
でもね、マジョリティが悪い!ってんじゃないの。
弱者であることを理由に他者を攻撃することを正当化するのは、そのやり方は、私は選びたくない。
圧倒的な力の差があるとき、それでも自分たちは間違っていないということを証明するためには、他者を壊しても構わないという論理
これはテロリズム。
テロリズムは爆弾を放り込むことだけじゃない。
案外誰だって、やったことあると思うよ。
昔はうちうちの陰口で済ませてた攻撃でも、今や誰からも見えちゃうネット上で。
そいで、意見の違いってあるもんだよね、多様性ダイジだよねって流れも生まれてきた中で、それでも自己防衛的に使われるようになったのが「わたし的には」だとか「人それぞれ」ってコトバ。
「ま、人それぞれだからね…」と言ってその先に踏み込まない人たち。その封じ込められた失った不満とか小さな違和感が、「気の合う人たちで固まって(異質な)他者をアッチ側認定する」人たちの背景にある。
あ~、あの「同じ意見」を持ってる人を見つけた時の前のめりな喰いつき方って、そういうことか、って合点した。一歩間違えると・・・
アイツらとワタシたち。アイツらは間違ってる。
ワタシたちは正しい。アイツらは敵。
アイツらとは分かり合えない。
ワタシたちは救われるけどアイツらはお陀仏。ぶつぶつ…
世界が二極化してるんじゃなくて、あなた(の思考)が二極化してるの。私だってするし、誰だってするよ。あえてそうやって大きく捉える視点もダイジ。でもそこから出られなくなると、大いに困る。困るぞ。
こわいのは、自分側VS相手側に分けて相手を「許せなく」なること。
ゆるすってのは、聴(ゆる)すってこと。
ゆるせないと、相手のこと(声)が聴こえなくなってしまうし、溝エリアからの声なんて存在すら気付けない。
「許すことは、囚人を自由にすることだ」と、神学者のルイス・B・スメデスは書いている。「そして、その囚人が自分だったことに気づくことだ」
上橋せんせは『物語ること、生きること』のなかでこう言っている。
「わたし的には」という言葉が意味しているのは、つまり「わたしの考えていることは、あなたの考えていることとは違うと思いますが」と、先回りして前置きしているわけです。
言葉のあたりが柔らかいせいで相手に対する配慮のような感じがするけれど、じつのところは「わたしはわたし」「あなたはあなた」と、あらかじめ一線を引いて、自分と他者を切り離そうとしている、ということでもある。
前もってそれを言われてしまうと、返す言葉も限定されてしまいます。
うん・・・わたし多分そういう先回りをこのブログでよくしているよ(笑)
「私は気分良く排泄してんだから、こっちに踏み込むなよ」って意識があるんだよ。ブログはどうしても、色んな人が見るからなぁ。「防衛線」を引いた言葉がほとんどだよ。
だってみんな、好き勝手に解釈していくじゃない(笑)
それも込み込みで、「託す」姿勢の言葉を書けるようになりたいね。これは来年に持ち越す課題だ。
いやいや、2021年からずっと言ってるじゃないか・・・(笑)いつまで持ち越すつもりだい!とツッコミをいれかけたけど、変容ってのは「徐々に」変わっていくもんなんだよ。くるん!とひっくりかえってスッキリ爽快変身完了!とはいかない。「発酵」ってのは、蓋を締めて開ければできてるようなもんじゃない。
「わたし的には」と口にするとき、人は、おそらく他者からの否定も、肯定も、求めていないのでしょう。
違いを認めたうえで、お互いをわかり合おうとするいともあるのかもしれませんが、でも、自分が人と違っていることで傷つきたくないので、違いがあるのだから構わないでほしい、放っておいてほしいと、あらかじめ距離をとってしまう、それが「わたし的には」という言葉に表れているような気がするのです。
グサッ!!!(笑)
ハートにビュンとメスを入れられた上橋せんせの言葉、あとひとつふたつ紹介して今日はおしまいしたい。
いま思えば「自分には語る権利があるんだろうか」ということを、そこまで気にするのは、語りたいことがあったからです。
「私はしゃべってもいいのでしょうか」と聞く人間は、必ず、しゃべりたいことがあるのです。
物語を書くことは、そのひと言で言えなかったこと、うまく言葉にできなくて、捨ててしまったことを、全部、ひとつひとつ拾い集めて、本当に伝えたかったのはこういうことなのだと、かたちにすることなのだと思います。
物語にしないと、とても伝えきれないものを、人は、それぞれに抱えている。
人生を物語ることで、魂が癒やされるのは、そういうことだ。
切って捨てられ殺されたたくさんの自分を、鎮魂するから。
↓引用するとほぼ全文ひっぱりこみたくなっちまうから、リンクだけ貼っておく。
やがて死の瞬間が来たら、自分も、死がどういうものかもわからないまま死んでいって、巨大な海のひと粒になって終わるのだろう。
それがあるから、どんなに物事を理詰めで考えても、その向こう側に、語りえぬ大きな沈黙が横たわっているという気が、どうしても、してしまうのです。
人生は歩く影法師。
束の間の灯火、哀れな役者、白痴の語る物語!
明日、また明日、そしてまた明日と、
記録される人生最後の瞬間を目指して、
時はとぼとぼと毎日歩みを刻んで行く。
大晦日を飾るコトバには、暗いじゃないか!と思うかい?(笑)
いや、私はこれを笑いながら言うよ。
葉っぱ一枚股間にひっつけて。
いのちの最先端に生きてることに、毎日に、YATTA☆があふれる歌で、2023年最後の記事にしようと思う!!!
ヘンタイ読者のみなさま、今年もコトバの向こう側から繋がってくれてありがとう☆
HAPPY NEW YEAR✪よいお年を!!