天体の軌道が織りなす瞬間のコスモスにジャックインせよ
ホロスコープよむっちゅうのは、そういうことか!!
頭の中がゴミ屋敷…カオスな様相。
住まう本人にとってなにひとつゴミじゃないんだけど!
でもね、たとえそれらが貴重なものや役に立つものであったとしても、それを抱え込んでいるせいで他のものを受け入れる余裕がないというのなら、それは「無知」なのですって。
どれだけ情報や知識があったとしても、他の可能性に自分を開けない人は、無知。
内田樹せんせは、どれだけひとつのトピック内の知識が豊富でも「情報で頭が一杯で新しい入力が阻害されている状態」は「無知」だと言う。
知的な態度というのは、自分の限界を痛感した先にある慎ましい態度。
学ぶってのは、容器の中に情報を注ぎ込むことじゃない。容器の形状を変えること。
容積や、機能が、それまでとは違うものになるってこと。
内田樹せんせの言う「自己刷新」は、千葉雅也さんが「勉強は自己破壊」と表現していたやつ。
バカじゃなくなるんじゃなくて、別種のバカに変化する。変わり続ける。
自分が自分じゃなくなる過程から、「自分ならでは」の世界が生まれる。
ナニかに乗っ取られるように。
自分の内側から聞こえてくる小さな気泡の音。
強さに目を眩まされるな!
衝動は、インパクトじゃない。
感情の高揚は不要なのだ。
必要なのは高揚した言葉やたいそれた夢によって生きるということなのではない。
無作法なまでにじぶんであること、ただそれだけなのだ。
そして今日読んだ詩集、これも長田弘せんせのだった。
フィジカルな詩の本がほしかったんだ!!日本で買ってきた一冊。
すごく、すごく、よかった!!!
カバー紙を外したら、黄色いハードカバーにフクロウの絵。
これは、何回も何回も読み返すだろうと思う。
詩は小説みたいに「誰か」が出てくるわけじゃないし、起承転結があって感情の起伏をなぞって楽しませてくれるわけじゃない。
それなのに、それだから?静かな衝撃といいますか。
コトバの魔力、ここにあり。
いや魔力とか魔術みたいに「目的」ありきのコトバじゃないのが、逆にその凄まじさを遺憾なく発揮するのか。
ただ、コトバのためのコトバ。
音遊び、意味遊びと言ってしまうと違うなぁ。
コトバの不気味さというか、美しさというか、その奥にある意味の曖昧で染み込んでくる「向こう側の世界」に接続される体験を。