9月になったね!
8月に読んだ本のメモ、まずはこれを書いてしまわないと!!
あした死ぬ幸福の王子/飲茶
飲茶さんといえば、史上最強哲学シリーズ!プロレス観戦するように、爆笑しながら哲人たちの思想に触れられるアレ。
『幸福の王子』はストーリー形式で、難解なハイデガー哲学を説明してくれる本でした。幸福な王子は有名な童話だけど、この物語の「前世」がメインストーリー。
物語そのものに関しては・・・
「これを教えよう、伝えよう」って目的ありきのストーリーは私あんまり楽しめないんだなってことがわかった(;^ω^)ストーリーはおいといて、ハイデガー哲学は興味深い!
死を意識することでようようやっと、「有限のいのち」の大切さに向き合えるんだよなって方向で・・・じゃあ、その有限のいのちの、何に価値(意味)を見い出せばいいの?ってことに眼を向けさせてくれる。
大前提の感覚として「自分が死んだあとも、何も変わらず続く世界に対する恐怖」があるんだけど。。。これは、ニンゲン一般的な感覚なのかな?私はこのそもそもの感覚が、わかんないから、想像しながら読むしかなかった。それこそ死期がせまるとわかるもんなのかもしれない。
もし死に直面して、私が怖いのは・・・
物理的な痛みとか、苦しみ。しんどいの、いや。。。
あと、息子たちの悲しみを想像すると心臓が苦しい。
その後の夫の苦労とか。
私自身の存在の意義とか、人生の意味、なんのために生きてきたんだろう、みたいな絶望は、いまのところ、全く想像できない。むしろ、え、そこが気になるの????って思った。
ちなみに生きている今も、そういう「私の使命!」「このいのちの意味!」みたいなものに興味ないからかもしれない。(なくてもそれなりに楽しいし、胸いっぱいの愛おしさとか生命への感謝は感じられるよ)
それは現段階の私の視野の狭さゆえなのかも。
キーワードその1「道具」
さて、ハイデガー哲学。
「私の存在」と「私以外の存在」の関わり方、世界の成り立ちを「道具」という視点で整理されてるのが、おもしろかったな!
私にとって、私以外の存在はみんな「道具」的存在。なにかしらの目的、意味をもって、カテゴライズされるもの。モノのカテゴリーだけじゃなくて、人間関係のカテゴリー、自然環境も含めて。
自分が世界をどうカテゴライズしているのか?どんな分類で見ているのか?が、世界を組み立てる。
世界ってのは、
見えるもの、聞こえるもの、触れるものといった五感で受け取ったモノゴトの集まりなんじゃなくて・・・
それを自分目線でカテゴライズした「道具体系」の組み合わせで、成り立ってるってこと。
牡羊座がワタシの存在だとすると、
牡牛座で経由する五感認識はまだワタシの世界にまで至ってなくて
双子座で道具としての使い道(いろんな存在の自分にとっての意味、分類)を知ることで、やっと「世界」が出来上がるんだね!
ココで言う世界ってのは、自分にとっての外部。
自分を含む、ひとつの場。
牡牛座的能力が発達して、双子座段階で世界が構築される、とも言えるし、
双子座で世界を発見するための能力として牡牛座的能力が発達する、とも言える。
そんでもって、双子座で自分⇔世界(自分の外部)を学ぶことで生じる「勘違い」について。これが重要。
自分にとって世界が、なにかしら「特定の意味や役割」を持つ道具としてカテゴライズするものってことは、自分もまた世界にとって道具的存在なんだって感覚。それは意味ありき、役割ありきの存在。
存在そのものに注目しているんじゃなくて、その役割が世界のピースとして存在を認められている状態。
だから、世界のピースとして存在しようと必死になる。
交換可能な自分の存在価値に、むなしくなる。
このストーリーでは死に直面することで、「ワタシのいのちの意味はなんだったんだ」と絶望する王子が主人公なんだけど。その「意味を問う」ことこそが、生きるうえでダイジなんだぞってハイデガーは言う。だから、死は、大切な問いを思い出させてくれる最強の手段。
確かに世界は、ワタシ×道具体系でできている。
でもワタシ自身は、(他のワタシから見ればその人の道具であっても)道具じゃなくて、唯一無二のワタシなんだよ。
ワタシを道具(何かしらの役割、意味)として見る世間の視線に合わせて自分を見るのは、世界の中心であるワタシのとるべき生き方じゃあ、ない。
道具としての自分の存在意義を求めることなかれ。
ワタシはナニモノ?
という問いを、ワタシという存在の意味、存在、可能性に関する問いを自分に向けることができることこそが、ニンゲンという存在なんだから。ニンゲンらしく生きようぜ。
ワタシにとって世界は道具、世界にとってワタシは道具。
なにかしらの役割、意味、使い道、求められる立ち位置が設定される。
でもワタシにとってワタシは、ワタシでしかありえない。
それは誰かが決めた道具としてのワタシじゃなくって。
ワタシが決めるワタシなの。
キーワードその2「有限性」
人間は有限、いのちには始まりと終りがある。
無限で万能の存在じゃないわけで、できないことが必ずある。無力感を感じることがある。その無力感を、この本では「負い目」と表現する。
有限だからこそ生まれる負い目。その負い目があるからこそ、「良心」が生まれる。ハイデガーは、この負い目(良心の呼び声)に目を向けることを重要視する。
負い目に向き合うこと、自分の有限性(有限性の究極のカタチは「死」だね)に向き合うことは、良心の呼び声に耳を傾けるってこと。
有限性を自覚する、自分の無力さを認める。
人は無限で万能の存在じゃない。だから、成功と失敗がある。ヨシアシ、価値判断が生まれる。完全に万能無限の世界には、イイもワルイも存在しようがないでしょう。
永遠に終わらないゲームに勝ちも負けも引き分けという結末もないように、喜びも後悔もそこにはない。
有限性の自覚ってのは、乙女座的だと思わないかい!
無力さという有限性があるからこそ、そのなかに「効率」とか「能力」があるわけでしょ。
道具として存在する世界(世界を道具として扱う、まさに乙女座的)の中で、その有限性の中で、できる限りの行動をする。価値を実践する。
ニンゲンの4大無力ポイント
①過去・・・生まれる、この世界に投げ出されること
どこに、どんなふうに、ナニモノとして生まれるのか?は自分がコントロールできることじゃない。(んまぁ、スピリチュアルな文脈ではこれも自分で決めたって言う人が多いけど・・・)
②未来・・・可能性をひとつに絞らないといけない、その全てを手にすることはできない
③今・・・目の前のことにいそがしい(笑)
やらんといかんこと、求められること、たくさんあるよねぇ
④他者・・・自分の外部の存在は、自分のコントロール外
右手をあげるがごとく、他者を自由自在に動かせるわけじゃないからね。
彼ら(ニンゲン)はー気付いたらこの世界に放り出され、そして死ぬことが運命づけられ、何が正しいかもわからないまま、自分だけの固有の在り方を問いかけ、他と関わりながら、今ココに現に生きている存在ーである
で、その無力ポイントにどう向き合う?
それが生きるってことだよ。
過去、投げ込まれて始まったこの命。
そこにオリジナリティ、ワタシならではの過去(つまり宿命)がある。
未来、全てを展開することは不可能。
そこにオリジナルの選択、ワタシならではの未来がある。
その人ならではの過去と、その人ならではの未来・・・その先にある結果がなんであれ、そうやって生きるのならそれがその人の正解なんだってハイデガーは言う。
蟹座と山羊座の軸だね。
そこに、ワタシ×世界という存在のやりとり(牡羊座×天秤座)がクロスする。
生きる意味、ワタシという存在の固有の価値、その答えは死ぬまでわからない。というか、死んでしまったらそれを「経験」するワタシがいないから、ワタシ自身が知りようがない。
答えにはたどり着くことは不可能。
そうだとしても、問いに向き合い続けるしかない。
絶対にゴールにたどり着けないとわかっていながら、その道を歩き続ける・・・到達できないと分かっていながらも追いかけ続けるしかできない「無限の反省」。
そのことを絶望的に捉える人もいるかもしれないけど、私は前の記事で引用したような千葉せんせのイメージが好きだな。
我々を闇に引き込み続ける謎ではない、
明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです
だって、追いかけることそのものが楽しいんだもの。
親王はなにかを求めて、ひたすら足をうごかしていた。
なにを求めているのか、なにをさがしているのか、自分でもよく分らないようなところがあった。そしてつらつら考えてみると、自分の一生はどうやら、このなにかを求めて足をうごかしていることの連続のような気がしないでもなかった。
どこまで行ったら終るのか。なにを見つけたら最後の満足をうるのか。しかしそう思いながらも、その一方では、自分の求めているもの、さがしているものはすべて、あらかじめ分っているような気がするのも事実であった。
なにが見つかっても、少しもおどろきはしなかろうという気持ちが自分にあり、やっぱりそうだったのか。すべてはこの一言の中に吸収されてしまいそうな予感がした。
わたし、昔の装丁絵↓のほうが好きなんだけどな。。。