大晦日に読み終えたのは、『物語ること、生きること』に引き続いて「創作する人」の語る物語。
図書館から借りて帰ってから、小林秀雄じゃなくて、小島秀夫だって気付いた(笑)さすがに小林秀雄せんせの書いた本だとは思ってなかったけど、同じ名前なのかと思った。
ゲーマー界ではレジェンド的なクリエイターなんだね!!
『メタルギアソリッド』を作った人。子供の頃、兄がプレイするのを隣で見てたなぁ!懐かしい。段ボールに隠れて、敵のアタマの上に「?」「!」と出るたびに爆笑してたっけ。
当時のゲーム業界ではかなり革新的な作品だったらしい。
小説にもなってるらしい。
ちょっと前に読んだ『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』がゲームクリエイターのハナシで、メタルギアソリッドの登場する時代にもクロスして触れてたから、それも思い出してオモシロかった!!!
※↓ゲームに興味なくても、逆にあんまりいい印象持ってない人でも、この物語は楽しめる。だって人生は… いや、人は誰もがプレイヤーでありクリエイターなんだから。
※知の巨匠、小林秀雄せんせは去年のプロジェクトで著書に出会ったんだったわ↓「学ぶ」とはどういうことか、「信じる」とはどういうことか、脳みそを刺激してくれた『学生との対話(新潮文庫)』
さて『創作する遺伝子―僕が愛したMEMEたち―(新潮文庫)』、タイトルにあるMEME(ミーム)ってのは、GENE(ジーン:生物学的遺伝子)に対して❝文化的遺伝子❞のこと。
リチャード・ドーキンス氏があのベストセラー本『利己的な遺伝子』のなかで紹介した造語。
身体をつくるGene(ジーン)に対して、Meme(ミーム)は文化を継承する。
それは教育、コトバを介した物語や信仰、人から人へと伝えられ進化していく遺伝子。
私がこのコトバに触れたのは、(『利己的な遺伝子』を読んだときも触れていたはずなんだけど、印象に残ったのはそこじゃなかったんだな)柴田勝家氏の小説。
↓感想、書いてなかったかなぁと掘り出した過去記事。感想らしい感想は書いてなかったけど、ここに保存されていたあのときの感動が解凍された!なんてこった!これについてはまた別記事に。。。
『創作する遺伝子―僕が愛したMEMEたち―(新潮文庫)』は、小島秀夫氏が出会った本や映画のコラム集みたいなものかな。クリエイターとして、ひとりの読者として、それぞれの作品のオモシロサと、自分の中に何が起こったのか、何を感じたのか、どこに繋がっていったのか。そして、これからどこに繋がっていくのか、繋げられるのか。
そのためにMEとMEをどう繋げるか、MEMEをどうやって創造していくのか、そんな思いが心を占めるようになってきたのだ。
この本のひとつ前に読んだ上橋菜穂子せんせの本も、「創作者としての私」「肩書きとはまた別個の、一人の人生を生きた私」の視点が絡み合う、物語との出会いとそこから生まれたものについてのハナシだったなぁ!
偶然手に取ったもの、触れるものあちこちから共通のテーマが飛び込んでくるとき、それは自分にとって重要なメッセージなわけで・・・
これは、真摯に受け止めねばならぬな、と思う次第。
物語ること、生きること。そして繋ぐこと。境界線を超える力を信じること。
↓上橋せんせも、境界線を超えること、繋がることについて語っておられた。
物語の、MEMEの力を僕は信じている。それは人を、世界を、豊かにする。だから僕は物語を語り、遺したい。多くの物語を伝えたい。それが人々を繋ぎ、世界と時代を繋いでいく。それは❝創作する遺伝子❞となって、誰も体験したことのない世界を見せてくれるだろう。
”僕が愛したMEME”は、僕と「あなた」を絆(ストランド)で結びつけて、新たなMEMEを創造してくれるだろう。
それは未知への冒険、開拓。
↓それは快楽
そして現実の私の背中を押して、誰かと繋がる橋をかけてくれるもの。
行くことのできない過去や未来、遠い世界を体験できるし、自分と違う民族やジェンダーにもなれる。本は一人で読むものだが、そこで繰り広げられている物語を多くの見知らぬ人と共有できる。
孤独だが、繋がっている。
物語を愛するものたちはみな、
「孤独と、繋がり」の重みを感じるものなのかも。
↓われわれはひとりぼっちで、そしてひとりぼっちではない。
ぼくたちはひとりぼっちではないことを知るために読むんだ。
ぼくたちはひとりぼっちだから読むんだ。
ぼくたちは読む、そしてぼくたちはひとりぼっちではない。
ぼくたちはひとりぼっちではないんだよ。
『創作する遺伝子―僕が愛したMEMEたち―(新潮文庫)』は特にSFが多く紹介されてたかな。いや、ミステリーも多かったかな。
物語やフィクションは現実逃避だと、しばしば批判される。
しかし、フィクションには真実がある。
それを先取りして、現実を是正するために戦う手段にもなる。
フィクション、それはサイエンスSフィクションFじゃなくても、歴史小説でもヒューマンドラマでもファンタジーでもそうだと思う。
小説はフィクションではありますが、格好の思考実験の場であり、その仮説が「生身の人間の人生」としてありえたかどうかを試してみる、よきシミュレーション装置だと私は考えています。
そう、そういうこと。
それは虚構(フィクション)だけど、現実と薄い膜一枚隔てて繋がっているもうひとつの現実。
ファンタジーの世界ってのは、目の前のリアルな現実(A)をとことん見つめた目を、ずんずんずんずんズームアウトして、めちゃくちゃ大きな枠で捉えたあとで、そこからまたピントをずらしてかなり至近距離までズームインした現実(A’)なんだと思う。
だから目の前の現実とかけ離れている世界を空想世界に描いているようで、実はそうじゃない。全く同じ世界を、ほんの少しずらしただけのリアルな現実なのかもしれない。
別の層の現実というか、パラレルワールドというか。
小島秀夫氏は、それが戦いの手段や現代への警鐘にもなる、と言う。
古代史の周防柳氏は、シュミレーション装置だ、と。
上橋菜穂子せんせは、願いを現実に結びつけるものだ、と。
物語は、見えなかった点と点を結ぶ線を、想像する力をくれます。
想像力というのは、ありもしないことを、ただ空想することとは少し違う気がします。
こうあってほしいと願うことがあって、どうやったらそうなるのだろうと、自分なりに線を引いてみること。その線が間違っているかどうかは、きっと、現実が教えてくれるでしょう。
私もね、「物語」のチカラを信じてる。
これからはそれを自分の中の感動だけじゃなくて、MEMEとして「継ぐ」方法を考えていく段階にあるのかもしれない。
そんなふうに考えながらページを捲っていると、飛び出してきた本。
占星術は・・・そこから離れよう離れようと、あがいてみた去年のプロジェクト。
それでも「星」がなにかしらのキーワードにはなってる。
なぜ私たちがここにいるのか、今わかった。
それは月をくわしく見るためではない。
振り返って、私たちの住みかである地球を見るためなのだ。
(アルフレッド・ワーデン)
続けてこのメッセージ。
そして、普段全く私の趣味に関心がない主人が「占いのお仕事(⇐彼は具体的に何をしてるのか、ブログのことも、全く知らないんだけど)今年はどうするの?」私が時間が、とかベビーが、とかもうやめようかな、とかもごもご言ってると「やりなよ」と。
そして隣りにいたイチくんまでも「占い、しなさい!!」と。
お仕事でもないし、占いじゃないんだけど(笑)
でも、これはものすごく強烈なメッセージを家族を通して聞かされてるんだなってわかったぞ。
応答せよ、と繰り返し投げかけられるメッセージ。