8月読んだ本の中で、インパクトナンバーワンだったのは、ピエール・バイヤールのあの本。
テクニック本じゃなくて、「本を読む」ってどういうこと?ってハナシ。
私たちが思い描いている「本を読む(or 読んでいない)イコール…」の部分をガラガラを崩してくれる。
本はそれ単体で独立した世界(決まった中身、完成した世界観がその中に確固として存在している)のように思われてるけど、そんなこたぁない。
その価値(中身の解釈のされ方、影響力、印象)はいかようにも変化する。一字一句同じ文章を綴じている本であっても。
これは人間観にも応用できるなぁ。
その人という物語が、どう語られて、どう解釈されるか。
本の批評は、クリエイティブな芸術活動!って視点が衝撃だった。
本は、自分の世界観を語る口実のようなもの。
同じ本でも、書き手という背景、本の立ち位置(数多存在する本の世界の中でどんな存在として位置づけられるか)、そして読み手の背景でその世界、本の価値は変わる。
同じ読み手でも、出会い方や周囲の環境もろもろの影響、過去や未来の関係性の中でまた変わる。
本は、読む人の鏡。
本について語りながら、実のところはわたしたち自身の人生を語り合ってきたのではないかと思う。
読書論といえばあの本。
だが読書の<内容>が水だとすれば、ひとつの脳にあまり多くの水を溜めてもいいことなんて、ない。水はよどみ、やがてダムは決壊する。そもそも容量が小さいのだから。
あるいはダム湖にブラックバスみたいな獰猛な外来魚(その名は理念?)が繁殖し、もともと棲んでいた少数のネイティブな小魚(子供時代の読書と経験から得られた小さな結晶や形象たち)なんか食いつくされてしまう。
水はどんどん海という共有場に向かって流れてゆけばいい。あるいは蒸発し、雲になればいい。流量を誇ったり人のそれと比べたりするのはまったくばかばかしい。われわれの関心は、流れる水によりどんなふうに岸辺の地形や植生が変わり、その周囲にどんな新しい調和と生命が生まれるか、にある。
水が刻一刻と作り替える環境を、生きた相で捉え、それを水系そのもの(つまり<私>としばしば呼ばれるこの生きたまとまり)の生存のために役立てること。水系自体が溌溂と生きている状態を保つためには、当然、山から海にいたる流れの全プロセスにおいて、流域の岩や土、フローラとファウナのすべてに対する、関心と気遣いが必要になってくる。
書物の森が水源だとしたら、そこから賢く、自分にほんとうに必要なだけの、水をもらうことにしよう。ゆきつく先が海だとしたら、そこにささやかな、ありあわせの素材で作った小舟を浮かべてみよう。
驚くべきことに、ぼくらはこの小舟に乗って、はてしなく広がる大洋へと出発することができるのだ。そして大洋にはたくさんの本の島が点在し、島にさしかかるたび、古いともだちや知らない島人たちが、海岸から手を振ってくれる。
その希望に支えられて、ぼくらはこの土地で、この都市で、生きている、生きてゆく。
読書の目的は内容の記憶ではない。そのときその場で本との接合面に生じた一回きりのよろこびを、これからやってくる未来の別のよろこび(読書によるものとはかぎらない、生のいろいろな局面でのよろこび)へとつなげてゆくことだ。
わんさか本を読む、本を愛する読書家たちはそろって「本を読む=通読、精読」じゃないんだよ、って言う。本を読めないと悩む人は、たいがいまじめすぎるのかもしれない。
だってそもそも「読んだ」ってどの程度のことを指してるのか?「読んだ」と「読んでいない」の差は、0か100か、白か黒かでパキッと分別できるもんじゃなくて、いろーんなレベルの「読んだ」があって、「読んでいない」がある。両者はグラデーション状につながっている。
私も「すごくたくさん本を読んでいる人」のように見られることがあるんだけど、多分その評価イメージはちょっと違ってて。私はかなりテキトーに流し読みすることも多いし、拾い読みだったり、一部だけ読んで勝手に引用することだってあるし、なんなら私のKindle本棚に並ぶほとんどの本は無料サンプル部分だけしか読んでいない。
かなり、「読んでいない」。
『読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)』を読んで(これは最初から最後まで楽しく読みましたとも😁)、無意識に抱いている本に対する固定観念が見えてくる。
本ってのは、独立した存在(周囲の人や環境に関係なく、変わらぬ内容、本そのものの世界観を保持するもの)のように扱われるけども・・・
実際は、いかようにも変化する存在なんだな。
読む人によってその世界は変わる。同じ人であっても、その人の読む時と場所、もろもろの条件でその中身(世界観、伝わるもの)は変わる。本そのものの価値、存在感は、書き手の立ち位置(背景)で変化すれば、読み手の立ち位置でも変化する。
それも「読んだ」「読んでいない」の曖昧さにつながってくるわけで。
古川日出男の短編集『偽ガルシア・マルケス』で、そういう本と自分との接点を「染み」と表現していたのを思い出す。
私にしか分からない「読書の染み」。そう、『偽ガルシア=マルケス (Kindle Single)』のなかでそういうモノを「読書の染み」って呼んでいた。
読書の染みは人によってちがう。
そこんとこがまさに、本を読むオモシロサ、そして共有したいオモシロサなんだよねぇ!!!
そのオモシロサに注目した「読書会」を、なんとなく思い浮かべていたのは『読んでいない本について』を読む前の私。
消化される前のまとまらないナニカでも、うまくコトバにできなくても、ぽちゃんと動いた心の波紋を書き残せる場として。
その瞬間の自分と反響した音を、あるいはしばらく時間を隔てて改めて発見した「波紋のたどり着いた場所」を、書き残す。
読書会のオモシロさって、同じ本や同じコトバに触れていても、響くポイントとか響き方がみごとに人それぞれな様子を目のあたりにできること!
非リアルタイムだからこそ、時間と空間を超えて「違い」に出会えるのもオモシロイかな、って。自分と誰かの違いにとどまらず、あの時の自分と今の自分から見つける違いもある。
(中略)同じ原料から生まれる、色も形も様々なコンペイトウ!その違いを生むのは、作り手のありとあらゆる要素。価値観とか視点とも言えるし、それを作り上げた過去や環境、そこに絡みつくいろんな影響や関係性、出会ったタイミング。それを分析するつもりはさらさらないけど、ささやかなコンペイトウの彩りの向こう側に、いろんな人生(いのち!)があるんだなぁと感じられるのも、好き。
ホロスコープを読むのも、似てるなぁ。
そこに何を見出すのか?
その人の世界観をありありと映し出す。