ひきつづき、8月に読んだ本メモ。
これの続き↓
現代思想入門/千葉雅也
7月に読んだ國分功一郎せんせの『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)』で、千葉雅也せんせの名前を知る。
あんまりにおもしろかったから、BOOK CAFEそらふね(note)で本の紹介を書いてたよ。
『現代思想入門』の導入、「現代思想を学ぶことは、今お役立ちなんだよ!」ってハナシは、哲学の意義について語っているようでもある。
複雑なことを単純化することが称賛される時代。
曖昧な部分、入り組んだ詳細は省いて、一律にパターン化する説明。個別の具体的なことから目を逸らして、みんなで共有できる大きくてわかりやすいストーリーへ。
単純化すれば「分かった気分」になるけども、デコボコで走りにくい道を平らにならされることで、見えなくなるものたくさんあるじゃない?
本当は単純化できない現実の難しさを、より高い解像度で捉えようともくろむのが、現代思想といわれる「考え方」。
私ね!!ホロスコープに思うのはそこなんだよ!!
教科書的な象意、読み解き方、知識は基本としては必要だよ。でも、それは実践用じゃない。個別の、名前のあるそれぞれの「あなた」に当てはめるもんじゃないって思うんだ。
「あなた」は、再現性のある、つまり誰にでも当てはまるキーワードを組み立てた存在じゃ、ないでしょう。
「普遍的に見られる性質」を否定しているわけじゃなくてね。
ホロスコープはその普遍性を分類した図だと思う。だから、誰にでも適用できるわけで。
その「誰にでも当てはまる普遍性」のうち、いくつかをピックアップしてそのカタチに「当てはめる」のが「占い」に求められることなんだけど。
そうすることで、とらえきれない自分や自分の苦しみ、悩みが「単純化」されて、「分かった気分」にしてもらえて、心地いいんだろうけど。
でもそれって、暴力的じゃない?
唯一無二のデコボコ道を、質感を、生きている時間を、「普遍性」の名のもとに平らにならされるってのは、暴力的じゃないかな。快感を伴う暴力なのかも。
それが求められるとしても、私はそれをしたくない。
(そういう葛藤に、ホロスコープを読むとき、求められるときにいつも苦しむ)
さて『現代思想入門』は、そういうパターンや共通の構造からあぶれでた「差異」に注目する思想家たちの視点を紹介する。
↓彼らが「差異」を取り出す「土台」部分を語ってるのが、こっちの本かな。
タイトルに入っているのはどちらも「現代思想」だけども。
『現代思想入門』で最初に登場するジャック・デリダを知ったのも、この3年前に読んだ内田樹せんせの『現代思想のパフォーマンス』だった気がする!
善と悪、自己と他者、自然と人工、えとせとら・・・
二項対立を超えてゆく・・・!
ってのが、現代思想のカギなんだけども。
その捉え方が、「パルマコン」的と表現される。パルマコン、薬でも毒でもあるもの、というギリシャ語。否定的なものは肯定的なものに、弱点は強みに、逆もまた然り。
それは「立場によってちがうよね」「そのときそのときだよね」「ひとそれぞれだよね」という単純な思考放棄とは違う。
複雑なものを、複雑なままにうけいれる度量が試されるシビアな視点。S極とN極に分かれた磁石のN極は、S極とN極にわかれた磁石が集まってできている。そのわかれた磁石のN極の中には・・・
円環する世界、まるでボルヘス!!
(早く読みたい本『伝奇集 (岩波文庫 赤 792-1)』)
ボルヘスは幻想譚の作家として有名だけど、実はリアリティを突き詰めたら幻想的な世界になっちゃうんじゃないかな・・・!
自己と他者、善と悪、本質と記号・・・相反するもののように思えて、その実一方の中にはもう一方がある。混ざり合うように、内包される矛盾、それが自然。
これは一つ前の読書メモ『センス・オブ・ワンダー』にも通じる。
豊かな矛盾を許容するのが、自然。この生きた世界。
千葉雅也せんせは『現代思想入門』の中でデリダの思想を通して「決断、考えることは片方を切り捨てること」だという。
わからない(わかれていない)ものを、わかること、わかろうとすること。それは自然を「敢えて」分離させるってこと。
溶け込んで混ざり合う世界を、あえて分離するのが「知性」。
双子座があちこちに建てる扉。なにもない空間は、その瞬間に「外の世界」とつながる「こちら側の世界」に変化する。
あちこちに建てたドアを結んで、有用なドアを残し無用なドアを省きつつ、世界の間取り図を完成させようと取り組むのが乙女座。
双子座と、乙女座。水星を守護星に持つ2つのサインは、「知性」の2つの側面。
決断は片方を切り捨てる、考えることは分離させること・・・とはいえ、だからそれをやめようってハナシじゃないの。改めて言うけど、「どっちもどっち」といって二項対立から目を背けるのは、ここで目指すこととは違う。
切り捨てている自覚を持てよ、ってこと。
どちらでもありうる世界を、「あえて」分離させることで理解可能なサイズに落とし込んでいるんだぞ、って。分別の無い世界を生きろとは言わぬ、それは「悟り」の世界だから。でも、矛盾を内包する世界を、できるだけ解像度高く、そのデコボコやざらつきを見ようと努めるべきじゃないのか?
と、私はそう解釈。(これもまた、何かを切り捨てた結果得られる世界・・・)
そんな「どっちともいえない」世界、混ざり合っている二項対立⇔の直線的イメージを、2次元に広げるのが、もうひとりの現代思想家として紹介されるドゥルーズ。
「世界は多方向の関係性に開かれている」
網の目のように、あちらこちらにつながって影響し合う関係性。仏教の蜘蛛の糸※みたいな世界観。
※蜘蛛の巣に光る朝露。ひとつぶひとつぶの水滴の中に、世界が反射してうつっている。それはゆらゆら、きらきらと、他の水滴のにも反射される。それぞれがそれぞれのひとつの世界を持っているんだけど、そのどれもがお互いを反射し合って連動している。同時並行的に、あらゆる世界が(私の世界と誰かの世界が)関連し合って写し合っている・・・そんなようなハナシ!
しかもその世界は常に変動している。「ワタシ」という存在も、その変動の渦中にあるひとつぶ。変動し続ける世界の中の、たまたま今このタイミングで、この組み合わせで成り立っている「糸くず」の塊をワタシと指しているだけであって。
自分と、自分以外の誰か。その時その瞬間の時、場所、いろんなものや出来事の配置。その何本もの絡み合った糸が、糸くずになって、毛玉になって、現実になってる。
世界に縦横無尽に広がる意図のうち、特定の時、特定の空間に固まった毛玉だけをピックアップして区切ること、それがドゥルーズの「仮固定的」と表現するところ。
世界は多方向の関係性に開かれていて、しかもそれは変動しているはずであって、自分自身の心あるいは身体をそのような変動のなかにある仮固定的なものと捉えるなら、
昔からずっとあるトラウマを想起するなんてそもそもおかしな話ではないか。むしろそれは、そのような基準点があると仮説を立てて、そこに向けて自分自身を固めていくような運動で、自分をむしろ硬直化させて治ったような気にさせるまやかしの技法だ。
この部分、私はかなり共感する。
過去はいかようにも「改編」できちゃうからね。
とはいえ千葉雅也せんせは精神分析の有効性も認めつつ・・・
ドゥルーズの「仮固定的」な視点も取り入れたらどうか、と提案する。
あと、ドゥルーズの
「欲望」は欠乏を埋めようとするエネルギーじゃなくて、積極的に現実を創造しようとするエネルギーなんだよ、って視点は新鮮だった!!
欲望を自分の欠陥やトラウマ、満たされなかった想いとして(癒やす対象として)取り扱うのもいいけど、創造の源泉、自分を驚かせてくれる(つまりワンダー!※)世界への呼び声だと捉えるのもおもしろくない?
それこそ谷川せんせの『人生のレールを外れる衝動のみつけ方』(また改めて記事にしたい本!!)に出てくる「衝動」ってやつなのかもしれない。
※ワンダーに帰ってきた!ここもつながる、あそこもつながる、網の目の世界ワンダーランド!ひとつ前の記事▷なにがなんだーワンダー仮面!(って、なんだっけ?なんの記憶?) - ことばのおもしろさ研究所
まとまっていない大きなエネルギー(欲望、創造力)を整流、制限してしかるべき方向に誘導すること・・・それが発達の流れであって、教育のなすことなんだな。
方向性を定めること、乙女座が整流して目指す山羊座の方向性、ひとつの枠組み。目的という制限。
目的からあぶれるエネルギーを「遊ぶ」のが、太陽。人生の中心なのが面白いところ。
どうしても現代の価値観はこの目的からあぶれるムダを排除しようとする傾向があるけども、太陽は山羊座じゃなくて獅子座の支配星だってことをお忘れなく。
私の使命はなに?人生でやるべきことは?って一足飛びで目的を見つけようとするのもまた、山羊座(土星)に縛られて太陽を見失っている状態なのかも。
目的をみつけたいんなら、目的度外視で、遊びたまへ。(笑)
遊んでいるうちに思いも寄らない偶然、死角から飛び出してくるのが、目指すべき場所。獅子座の150度先につながる、山羊座。
それは「本当にやりたいこと」で表現するナニかでもなければ「強い感情の高ぶりを伴うもの」でもない。
そこんとこ『人生のレールを外れる衝動のみつけかた (ちくまプリマー新書)』のめちゃくちゃおもしろい視点なんだけど、これは記事をわけて書いたほうがいいな。
マジョリティとマイノリティに対する「思い込み」にハッとさせられる。
正常と異常、狂気と理性、権力と非権力・・・それはそのときの社会と環境が設定するもの。そして片方がもう片方抜きには存在できない、混ざり合っているもの。
異常認定されたものたちに対する社会のあり方の変化についてもおもしろかった。
蔑みと尊敬を同時に抱える特殊能力者として市井をうろつく存在から、別世界に隔離させてあちらとこちらで住み分けるべき対象へ。
そして今は、「治療」や「サポート」の名のもとに、マジョリティの世界に慣らし訓練を施すべき対象に。
それがイイとかワルイとかはまた別のハナシ。
この「秩序」と「秩序からはみ出す存在」の対比を、アポロンとディオニュソスになぞらえているのがムネアツ。
陽:アポロン
表面に現れるカタチ、基準や中心(本質)、普遍的な「同一性」
「意志」の力、そして意志を生む「意識」の存在。
に対して
陰:ディオニュソス
混乱、内部にうごめくエネルギー(働きや機能)、物質や身体など周辺に位置するもの、個別で具体的な「違い」
コントロール外にある「無意識」の力。非合理で、偶然の世界。
西洋思想はアポロン>ディオの価値観をベースに発展してきたわけで、占星術もその思想を組む。意志の力☀を発揮せよ、と。
一方でディオ様は「全ては偶然」の、分別できないばかでかい世界。岡潔の言う、秩序(宇宙、コスモス=世界)が生まれる前の情緒の世界だね。
キリスト教的な視点で見ると、時間と空間が生まれて、世界ができた。
時間と空間、時空が始まるのは、自他の区別が生まれるってこと。「1」という概念が理解できるようになるってこと。自分/世界の境界線をひけるようになることで、森羅万象が生まれる。時間という概念が生まれる。
でも、自他の別が生まれる前、「1」に思い至る前の段階が人間にはある。それが情緒の世界。境界線を超えて、自他が混ざり合う赤子の世界。浸透しあっている世界。
時間を扱うホロスコープだから、「時間前の世界」は取り扱わない(省く)のは当然のこと。触れるべきはアポロンの世界であって、ディオ様はむしろ危険なのだ。
「それはあくまで偶然です」なんて、言っちゃいけないわけです。
↓でも、言っちゃう私
占星術をするなら、全てのものに「意味」を見出さないといけない。
そして、「その主導権はあなたが握っているのです」と有能感を与えないといけない。
↓でも、それを放棄する私
「わたしはわたしの運命の主人」
「わが魂の船長はわたしである」
ウィリアム・ヘンリーのこの言葉を挙げて
これほど傲慢で、とんちんかんなことはない、とハクスリーは言う。
最近の占い提供者が好きなセリフなんだけどな(笑)
なんならわたしもこのブログを立ち上げた当初、最初の記事で占星術を例えるときにそう書いていたかもしれない。
「わたし」に運命を支配することはできない。
だってわたしは「もっとも口うるさい船客のひとり」にすぎないのだから。船長の食卓に招待されるほどの身分でもないし、魂の船がどんな形で、どんなふうに動き、どこへ向かっているのか知らされてもいない。
(これは占星術、占いファンのみんなから反論が来そうだけど、今のわたしはこの言い分がとってもしっくりくる)
ああ、でもやっぱり私はディオ様に心惹かれてしまうのね。。。
「それはあくまで偶然です」としたうえで、その偶然性の織りなす世界に、偶然だからこそウツクシイと心打たれるのです。
それと同時に、個人の視点から見た宇宙の「必然性」、コントロール不可能な全体像にも、たまらなくかなしく(愛しく)思う。
運命は、コントロール外の大きな流れ、って捉え方が好きだなぁ。いのちって、いのちを運ぶ世界って、ワタシひとりでどうこうできるわけじゃない、どうしようもない存在。私はそれを悲観主義じゃなく、むしろ楽観主義の極みに感じる。
運命愛、ニーチェはそう表現した。
世界の前提は、ディオ様的なものである。コントロール外のエネルギー(哲学ではそれを他者と言うよ)、偶然で、個別的で、具体的な世界との接点。
そこにアポロン的な力・・・意識化する、パターンを見出す、必然化、物語化することで、そこに意味を見出そうとディオ様とアポロンがぶつかることで、ドラマが生まれる。
生命力の火花が散る!!
生命が、時間を舞台にした唯一無二のストーリーが、始まる。
占星術の源流である西洋思想は、ディオ様的な世界を、「闇」と言って遠ざけてきたわけで。理性=意志の力で切り開く未来こそが創造的だ、善だ、と。
日本大百科全書(ニッポニカ)より
理性りせい/reason 英語/Vernunft ドイツ語/raison フランス語
物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。美と醜を識別する働きさえも理性に帰せられることがある。それだけが人間を人間たらしめ、動物から分かつところのものであり、ここに「人間は理性的動物である」という人間に関する古典的定義が成立する。
(中略)
古来、理性は闇(やみ)を照らす明るい光として表象されてきた。理性によって宇宙における諸事象をある比例的・調和的関係において眺め渡すとき、暗い、見通しのきかない混沌(こんとん)(カオスchaos)のなかから、ある法則的関係のなかに定位された調和的宇宙(コスモスcosmos)が出現する。
(中略)
明るい光としての理性に対比していえば、感性的欲望や情念は、暗い盲目的な力である。
(中略)
喜び、悲しみ、怒り、欲望、不安などの情念は、暗い、非合理的な力として内部から暴発する。
ざっくり言えば、
本能的な反応、感情、欲望は暗闇。まだ人間として目覚めていない、動物の名残の中にまどろむ夢の中。理性は光、宇宙の調和を見ることができる力。
そんでもって、理性は意識という本質部分(現代で言えば脳)、欲望や動物的な反応は身体(物質世界)に対応する。
男性性(光、理性)と女性性(闇、肉体)でも言い表せる。
闇の「豊かさ」に向き合い続けた作家といえば、アーシュラ・K・ル=グウィン!彼女もまた、二項対立を超える「境界線」の物語の紡ぎ手。
皆さんが失敗したり、敗北したり、悲嘆にくれたり、
暗がりに包まれたりした時、暗闇こそあなたの国、
あなたが生活し、攻撃したり勝利を収めるべき戦争のないところ、
しかし未来が存在するところなのだということを思い出してほしいのです。
私たちのルーツは暗闇の中にあります。
大地が私たちの国なのです。
どうして私たちは祝福を求めて、仰いだりしたのでしょう
周囲や足元を見るのではなく?
私たちの抱いている希望はそこに横たわっています。
ぐるぐる旋回するスパイの目や平気でいっぱいの空にではなく、
私たちが見下ろしてきた地面の中にあるのです。
上からではなく下から。目をくらませる明かりの中ではなく
栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。
闇を肯定する、見つめるというと「カッコイイ悪役」を描くって意味だと勘違いされそうだけど、そーゆーわけじゃあない。それは、彼女の物語に対するコトバを読めばわかるとおり。
(年齢にかかわらず)成熟していない人たちは、道徳的な確かさを望み、要求します。これは悪い、これは善い、と言ってほしいのです。
彼らにとってヒロイック・ファンタジーは、倫理的な明快さを感じさせてくれるものかもしれません。しかし、(疑われることのない)善と(検証されることのない)悪との間の戦いと称されるものは、物事を明快にするかわりに、ぼやけさせます。
それは、暴力についての単なる言い訳にしかなりません。それは、現実の世界の侵略戦争と同じくらい、浅はかで無益で卑劣なものです。
光がイイ、闇がイイ、ってハナシじゃなくてね。
それこそ、二項対立で物事を見ると、どうしても「どちらかがどちらかの上(下)にある」構造でしか物事を捉えられなくなってる状態。
えっと…なんのはなしだっけ??
あ、『現代思想入門』。
そんな光と闇が混ざり合い溶け合う世界の複雑さ、でこぼこで、平らにならされる前の現実に向き合う方法を、現代思想は模索する。
そのために「闇」にあたる部分、偶然がぶつかりあう、捉えきれない「謎」に満ちた世界を突き進む哲学者たち。
その「謎」は、絶対に突き止めることができない、とわかっていながら。
絶対に叶わぬ目標のために、命をかける。全力をかけて無駄なことをする人、哲学者!
星を眺めるもの(stargazerスターゲイザー、ギリシャ語でなんだっけ?)、は役立たず、って意味で使われていた時代。哲学者こそスターゲイザーであれ、といったのは誰だったか?プラトン?
スターゲイザー(星を眺めるもの、自分の足元を見ない愚かな役立たず)こそが、大海原をわたるために船を導く必要不可欠な存在なんだから。
千葉雅也せんせのしめくくりが、爽やかで好き。
ディオニュソス的な過剰な逸脱したエネルギーを肯定することは、到達できないと分かっていながらも追いかけ続けるしかできない「無限の反省」から抜け出すこと。
生という有限の存在だからこそ出会う問いに向き合おう。世界は謎の塊ではなく、問いが散在する舞台。
千葉せんせが惹きつけられるもの、追いかけるものは、決して手に入れることのできない絶望的な闇じゃない。
それは
我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです