何回も何回もブログに書いてるけど
私は「決めつける」占いが好きになれないのね。
「○○座の人は〜〜だよね」
「あの人が〜〜なのは△△座だから」
「やっぱり□□座は〜〜なんだよ」
ってラベル付けは、その評価を下している(その発言をしている本人)がその要素をピックアップして見てるだけ、だと思うよ。
「カラーバス効果」「自己成就予言」「
確証バイアス」「バーナム効果」等々、心理学的な落とし穴にハマっちゃってるなーって人は、そういうラベル付け的ステレオタイプ的な発言が多い。
「占い好き」な人は、みんながみんなそうじゃないけど、やっぱりそういうステレオタイプが好きな人が多い。わかりやすいラベルは、安心させてくれる。私はわかっている、っていうある種の万能感・優越感をくれる。
安心と、興奮。依存性がある刺激。
特に不安感や不満足感の強い人は、占いやスピリチュアルの落とし穴にハマりやすい。
確かにサインはそれぞれの「特性」を表しているけど、時間の存在する世界に生きてる私達は、変化(プロセス)の過程に存在しているんだからその特性も過程の中の一部として見えたり感じたり意識したり、たち現れるもの。
だからね
「この人は○○座だから〜〜だ」じゃなくて
「今の私は、この人の○○座的要素を〜〜を通して見ている・感じている」ってこと。
「私は△△座だから〜〜してしまう」じゃなくて
「私はこれこれこういう場面の行動に△△座的要素を感じる」ってこと。
あくまでも、テンポラリー(その場限りの即興)なもの。
その人がどんな人であれ、どんな人だったとしても、それはその人のプロセスと自分のプロセスの交差した特定の接点に過ぎないわけで。
偶然であれ必然であれ、その時その場そうだった、ってだけ。
そこに固執しすぎないほうが、もっとたくさんのものが見える。
全部記号でしかないのにね。先に私という人間が存在していて、その私が「どういう人か」を端的に説明するための単語。私の中では星座、血液型と一緒よ。分類はできるけど、その人を縛り付けるものではない。
レンズの倍率、大きさ、位置取りを自由に動かせるってことがダイジ。
そのレンズをバラエティ豊かに揃えてくれるのが占星術。世界をいろんな角度・解像度でみるフレームをくれるもの。
レンズを固定してそれを通してしか見ようとしないのは、全く逆なのだよ。