ニンゲンのみなさん、「感情」エンジョイしてますか?
エモエモきゅんきゅんハラハラいらいらしくしく満喫してますか?
「感情」って、ほんまオモシロイなー、と思う今日このごろ。
あせくっさい青春だった私、あまずっパイ感情はあんまり縁がなかったんだけど、最近新しい世界の扉を開いてしまい「ぎゃっっっ!!!」と鼻血ぶぅしました。
それも、感情。
ほんで最近、家族がちょっとした事件に巻き込まれて、どうしようどうしよう、とオロオロしました。
これも、感情。
あー、感情あじわってるなー、
たまらんなーーー、
と、最近とみに思ったのでありました。
しかし+であれ−であれ
摂取するのは「絶対値(+3も−3も絶対値は3)」なわけで。
煽りやすいのはマイナスなわけで。
そういうわけでSNSやメディアや人と人のやりとりも、
マイナスを刺激してより多くの感情摂取しようとしちゃうのよね。
どっちにしても、過剰摂取はヨロシクナイ。
肉体的な負荷が大きいし、
帰ってこれなくなるリスクも大きい。
過剰摂取しなければ別に、感情の外側の世界、
フラットで静かな「悟り」の世界に憧れる必要ないのにねぇ。
そんなことを、田口ランディ先生が書いてたのを思い出した。
たくさんの感情を経験することは、
この世界での旅をよりよくするための一番の方法。
ひとつの感情に留まりすぎず、すぐに手放すこと。さわって手放す。
その次の感情を迎え入れること。
感情のエネルギーを過剰に肉体に帯電すると、肉体に負荷がかかる。
適度な親愛の感情は肉体にとって、とても効果的。
内臓が歓喜で震えると、細胞は癒され活性化する。
でも、それすらも多すぎるとやっぱり負担なのだ。
多けりゃいいというものではないのだ。
高くても低くても同じバイブレーションで肉体には負担がかかる。
意識とは、世界を秩序あるものへととりまとめようとする意志のこと。
この意志は、カミの意志。
世界はただそこにあるだけだけど、
意志をもって秩序あるものとして捉えることもできる。
その時、世界は美そのもの。
その美が感情のコードと共鳴し、
人間そのものが世界の音楽を奏でるカミの楽器となる。
楽器は音楽を奏でることで初めて奏者であるカミの存在に気づく。
人間は宇宙の秩序について、感情のコードで知る。
その他の方法ももちろんあるけれど時間がかかりすぎて効率が悪い。
肉体は四十五億年の歴史があり、
その情報を共有することが出来る。
たかだか一万年の意識に人間は頼りすぎだ。
肉体を使って感情から言語化していない情報を得ればいい。
微細な感情を経験することで世界はより深く広く近くなる。
イネスの声の波動が読み取れる。
この感受性を呼び覚ましてくれた小さなものへの感謝を歌っている。
その存在は小さいけれど、小さなものの力が世界を変えていくことがわかる。すべてではなくて、そんなことはすでにあるのだから。
わかることが大切なのではなくて、感情のなかに飛び込む勇気をもつこと。
人間は世界に開かれた感受体であり、
感情は世界を読み解くためのコードであり、
肉体はコード解読のためのOSをもったPCである。
感受体である人間は、
感情という肉体と親和性のあるコードを使って世界と共鳴する。
人間は宇宙の楽器。人間はカミの楽器。
私は感受性をもつ「個」としての私と同一のものであるけれど、
その背後にあるもの。
世界は二つアル。虚であるものと、個であるもの。
それは同時に存在している。
虚の世界では、人間は宇宙空間のなかに漂う貝殻のようなただの感受体。
宇宙にはコードがある。無限のコード。
人間は感情で宇宙のコードを読み取る。
感情とはひとつのスケール、尺度。
オクターブのようなもの。
人間の感情はオクターブのように振れ幅があって、
その上とその下がある。
感情の上、感情の下、そして感情の外の世界。
どれも同じ。
でも人間は肉体があるのだから感情を使えばいい。
使い方は子どもに聞きなさい。
世界はすべてを数値に置き換えることが可能だけれど、
それをやるにはあまりにも効率が悪い。
だから多少のリスクはあるけれど、
感情を使うほうをおすすめします。
内臓を嫌わないでね。四十五億年生きている。
意識の歴史より長いんだよ。
何度でも言うけれど、世界は見たようなものだ。
人はどの波動にも自由にシンクロできるし、自分がどんな感情に捕らわれたいかを選んで、
そこに飛んで行くこともできる。
あるいは眺めているだけのこともできる。
感情の外の世界はきれいだけれど人間にはおもしろくない。
機械的だと思うんだろうね。それが人間ってものだ。
とにかく世界がわかったと思うな。
世界はこんなものだ、すべては同じだ……と、
ただそれだけで終わるな。
感情の外の世界にだいぶする遊びだけにハマルのもやめろ。
いくら深くダイブしてもしょせんそこは肉体のある人間の世界ではない。
シャーマンが歌うのは、
もう一度感情のある人間の世界にもどっておいてということ。
その世界で感情のなかに怖れず飛び込んでいいんだよ。
それから宇宙のコードを読むのが人間のやり方で一番効率がいいんだ。
コンピューターなんかいらない。
キノコを使って感情の世界の外を見たのは、
感情につかまらないためなんだ。
飛び込んで。それを泳ぎ切るために感情の外を観ることも必要だ。
でも、それを観たからと言って世界をわかった気になってはいけない。
そのためにシャーマンが小さき者への感謝の歌を歌う。
世界なんて最初からある。
わかろうがわかるまいがオマエの知ったことじゃない。
たいしたものでも、つまらないものでもなくそこにある。
そういうものなんだ。
それがわかるというのは人間の慢心だし、
わかったという気持ちがすでにとらわれなんだよ。
あんたは、ただ見て、そしてありがとうと言うんだ。
自分を助けてくれた小さな生物の命に。
今日、何個のキノコを食べた?
キノコはカミサマの子どもたちだよ。
秘密を教えてあげよう。
私はね・・・常に「怒って」いるんだ。
映画『アベンジャーズ』で活躍するヒーローのひとり、ハルク。
敵味方見境なく暴れ狂うすさまじい化け物ハルクのその正体は、穏やかで温厚なバナー博士。
博士はストレスや怒りが高まりすぎてぷっつんすると、怪物ハルクになっちゃうの。
でね、自分の意志でハルクに変身できるようになった博士に、仲間たちが聞いたの。
「どうやって怪物ハルクをコントロールできるようになったんだ?」って。
秘密を教えてあげよう。
私はね・・・常に「怒って」いるんだ

怒りを抑えて、コントロールして、もうひとりの自分ハルクを制御してるんじゃない。彼は、自分の身の内に常に「怒り」が存在していることを認めた。自分の一部として引き受けた。
そいで私は、衝撃を受けた。
そうか私も「常に怒って」いるのかもしれない、って。
特定の誰かや何かに対する怒りとか不満とか、攻撃欲求とかそういうのと違うんだけど。何かを否定したり妬んだりする「怒り」じゃなくて・・・
もっと、うごうごしているエネルギーのかたまり。
うーん、「怒り」としか言いようのないんだけど、日常的な「怒り」とはちょっと(いやだいぶ)違う。感情未満の、「重力がすさまじい火」って言ったほうが近いのか?
おもしろいのは、文章の世界では私の「怒り」は全く違うカタチをとるってこと🌱
文章の世界で私が繰り返し繰り返し、語る素材を変えながら、語り方を変えながら、語りかける相手を変えながら、表現してきたのは、まぎれもなく
人間讃歌。
それは祝福。ヨロコビ。愛。
怒りを隠したキレイゴトってわけじゃなくて、むしろぴゅあぴゅあなエナジー。
怒りと愛は同じ存在だったのか!
不動明王が表現する「憤怒」は、「コラー!!」とか「ムカッッ」て意味の怒りじゃなくて、もっと深い層の怒りだったのか!!
「それはダメよ!!!」って否定の怒りじゃなくて、
むしろ全てを肯定しているがゆえの、熱くて濃厚な、火。
じれったくて愛おしくて苦しくて悲しい、火。
その火を絵に描こう、いつか・・・。
ああ、そうだ。
感情はこの火がちらちら反射してる影なんだな、って。
だから尊いのか・・・!!