「占い好き」な人は、みんながみんなそうじゃないけど、やっぱりそういうステレオタイプが好きな人が多い。わかりやすいラベルは、安心させてくれる。私はわかっている、っていうある種の万能感・優越感をくれる。
安心と、興奮。依存性がある刺激。
特に不安感や不満足感の強い人は、占いやスピリチュアルの落とし穴にハマりやすい。
それが救いになる、大変な状況を支える指針になる、
というのもわかるし、私も子育てグロッキーな母の身、
できるなら、助けになりたい気持ちもある。
でも、でもどうしても、
それじゃあダメなんだ、反対方向なんだ。
その時は一時的に「ラクになる」かもしれない。
でも本質的な「救い」にはならない。
むしろ反対に視野をせばめてしまう。
いちばんダイジな
「世界(他者/自分)との向き合い方」が
ゆがんでしまうリスクのほうが、大きい。
「わからない」を「わかりたい」
自己理解や他者理解という耳心地のいいコトバで
世界の「トリセツ」を安易に作ってしまうのは
作れるという錯覚で人をカモにすることに、私は反対だ。
そのニュアンスが、いちばんモテる
(必要とされる/売れる/人気を集める)のは
重々承知なんだが…。
「わかった!!」の快感、刺激、魅力のチカラはすごい。
わかりたい欲求は、人類にとって抗えないすさまじい欲求だと思う。
「腑に落ちた!」「モヤモヤを言語化してもらえた!」
は快感であっても、断じて「癒やし」ではない、と私は思う。
でも否定するだけじゃダメで、そこに別の道筋を提示しないといけない。
それこそが「倫理」(世界といかに向き合い、いかに善く生きるか考える)ことだと思う。
だから、私はこの葛藤と向き合う。
現実への最も有効な批判は、
可能な別の未来(=選択肢)を提示することだ
だからといって、苦しい状況、悩んで、迷って、道筋を求める人に
「そのまま悩み続けなさい、それこそが善き生き方です」なんて
突き放すのは乱暴すぎる。
私だって、悩める子羊の一人として、なにかしら指針がほしいいつも思う。
フロイトはかつて、
自分の人生や境遇をある種運命的なものとして捉える、運命神経症(Schicksalszwang)の存在を指摘した。
これにかかると人は、自分の運命が、自分では変えられない固定された性格と不可避的に結びついていると考えてしまう。
本当は変えられるかもしれない自分の境遇を自分の本質だとみなし、そこから脱出できなくなる。
MBTIにせよ、占星術にせよ、ビッグファイブにせよ、
キャラクター化されパッケージングされた「個性」を依り代にして
自分を演じたり再構成しているってこと。
それがイケナイんじゃなくて、そこに自覚的でありたい。
MBTIが生み出す「16タイプのキャラクター像」は、しばしば私たちの自己理解をある種の連続した物語へと閉じ込めてしまう。
「私はENFPだから常に陽気で衝動的」といった固定的なキャラクターをパフォーマンスし始めると、その性格の一貫性を維持しようとするあまり、日々の異なる状況や感情の変化に敏感に反応し、向き合うチャンスを、ふいにしてしまうかもしれない。
これはまるごと、占星術の文脈でも言えることだと思う。
逆に「獅子座なのに」「射手座なのに」といった、それにそぐわない自己イメージにこだわるパターンもあるあるじゃないかな。
この本『物語化批判の哲学』で提案されているように、
「キャラクターを試着してみる」ってスタンスならいいのかもしれない。
自分自身ならまだしも、
他者に対してこのまなざしが向けられることに
私はすごく「むむむ・・・」と危うさを感じている。
だから、今回のオファーにすごく葛藤を感じたんだな。
相手のことが「わかりたい」と思うのは、
対人ストレスに対する適切な反応。
攻略法をあらかじめわかっておけば、
お互いスムーズに関係性を結べるのではないか。
確かに、お互いが共通の世界観の「特定のキャラクターを演じている」ってんなら、それは安心材料になるし、「つながり」になっていいのかもしれない。
占星術を共通言語に持つワレワレが、あえてサインや天体で自己紹介をするように。
でも、できるだけスムーズでつるつるとした関係性をむすぶことで
お互いの生命力を発火させることはできるんだろうか?
相手を「点」で固定して、点と点でつながることへの「違和感」を
彼女たちは、それこそ生命をかけて、語り合っていたじゃないか。
点と点で、握手するようにその場で固定される関係性じゃなく
近づいたり離れたり、ためらったり失敗したりしながら、
そのプロセスをたどる「線」こそが、
いのちある関係性なんじゃないだろうか。
対人関係だけじゃなく
世界に対しても。
というか、世界への向き合い方が
そのまま他者との向き合い方に反映されるんだけどね。
稲垣先生は、『くぐり抜けの哲学』のなかで、こういう。
人がゲームに夢中になったり、攻略法をあらかじめ知っておきたいと思うのは
日常があまりにも「曖昧」だから。
その曖昧さのストレスを避けたいからなんじゃないか、って。
ゲームや攻略トリセツは、ルールがはっきりしている。
何が正解で、何が不正解か。
運命論(決定論、物事や出来事にはあらかじめ意味がある)に惹かれる根拠も、ここにある。
偶然の余白は、アンコントローラブルな展開を生む。
それって、とっても怖い。怖いことは、不安だし、不愉快になる。
私たちは偶然の余白に身を委ねるストレスを避けて
ゲーム的な生き方を求める。
ルールやトリセツがあって、
「より効率的」な「より自分に合った(正解に近い)」ルートがある
(あらかじめ設定された性格、運命、使命…)
という設定に惹かれる。
アンコントローラブルな、プレイ(遊び)を楽しむことを忘れて。
私は、プレイ(遊ぶこと)にこだわりたい。
それは、予定調和をひっくり返す展開を、楽しむということ。
そう、「わたしは天王星が効いているから」(笑)
ゴール/理想の未来像を決めて邁進するのもいいけども
流れに身を任せて、その瞬間瞬間の展開を楽しんでみたい。
占星術が、その楽しみの足かせになっている気がして、
ホロスコープやら月相を見ることをやめた。
自由になった。
自分の生き方を規定しているほんとうに強い規範力は、実在しないもの。
指向性、方向を決める力。
その方向に行くならどの道を通っても最後に行き着く先は同じ。
逆説的に、偶然の余白、アンコントローラブルな展開を遊んでいるうちに
より大きな「運命的」な出会いに気付いたりする。
因果の糸がもつれて、自由意志で動いているようで実は、
結局運命に導かれて、いるべきところに帰着していく。
自由に生きたほうが、そういう大きな力に取り込まれていく。
自分を方向づけている縁がくっきり見えてくる。
人は自由であるときに、宿命を見出す
自由に生きれば生きるほど、運命は紡がれる
重ね重ね言うけど、
占星術を楽しむことを否定しているわけじゃないんだよ。
でも「みんな星にとらわれすぎじゃないか???」とも思う。
そしてこの展開でこういうのは、ものすごく矛盾しているように聞こえるだろうけど
また、占星術関連のプロジェクトが始動しそうな予感・・・・・!!!
たぶん、ベースには、去年のこのプロジェクトがある。
おそらく前にもまして「占星術」の基本構造を素材にしつつ
一般的に期待される「占星術」からは遠いものになるだろうと思う。
だって、隕石が落ちてきたんだもの。
そのタイミングでリアル隕石のニュース見て、確信した。
まだプロジェクト構想はまとまっていないし、芽生えの気配でしかない。
だから発表できることもないんだけど、この廃墟化しつつあるブログに戻って
隕石の気配を確認しにきた。
「分かんなくてもいいけど、とにかく、わたしたちは、聴いてる人に自分たちの歌を届けようとは思ってないわけ。
ましてやメッセージを押し付けようとも思わないし。
絵描きの絵とかも一緒じゃない?
テーマとか意味とか質問するのに意味はないのよ。
かといって伝えたいことがないわけじゃなくてね。
隕石としか言いようがないけど。
わたしたちの歌は、空からでっかい意志を運んでくるわけ。
聴いてる人の胸にその隕石をぶつけるの」
「隕石ってのは、『遠くから降ってくる大事な感覚』のたとえだよ」
そして私はこれも、「目に見えぬ約束」だと確信している。
「目に見えぬ約束」は、言語化(説明)することができない。
してもらうことができない。
人によっちゃそれをタマシイの抱く使命だとか天命だとかカッコイイ表現をする。でもそれは、生きているうちに分からなくて(言語化できなくて)もいいんだと思う。
なるようになる、といいますか。
あれあれ、「隕石」のくだりを書いた過去記事を探してるときに
飛び出してきたこの記事・・・↓
ここで引用していた長田先生の詩の一節。
いまから百年後に
君の家(うち)で、歌って聞かせる新しい詩人は誰か?
今日の春の歓喜(よろこび)の挨拶を、わたしは その人に送る。
わたしの春の歌が、しばし君の春の日に こだましますように。
君の心臓(こころ)の鼓動のなかに、若い蜂たちのうなりのなかに、
そして、木の葉のざわめきのなかにも、こだましますように。
いまから百年後に。
最近、考えていたことの応えだな。
過去からの、あるいは未来からのメッセージ。
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
−宮沢賢治
BIG MAGIC✨️
ゲニウスに誘われて、来たる隕石。
そして同じ波紋に揺らされた、小舟の仲間たちに出会う気配。
もう出会っている誰かかもしれないし、
初めて声を交わす誰かかもしれない。
『音楽は最初の一滴。それが波紋をつくる。
波紋が波紋を生んでいく。やがて、おおきな波となる。
波は大気を揺らし、星を覆い』
『そして、目に見えぬ、約束に届く』
ああ、そうだ。
小舟の仲間たちを新しいメロディを創るんだ。
われわれがメロディを発明するとき、
われわれがメロディを歌うというよりも、
メロディがわれわれのなかで歌うのだ
ーメルロ・ポンティ
メロディの「依り代」か。