ジョセフ・キャンベルの『神話の力』をちまちまと読んでる。
このペースで熟読してたら、返却期限に間に合わんな(笑)
AmazonSG🇸🇬で日本語書籍送ってもらえることがわかったから、もう購入するしかないか・・・!!ちょっと最近、ショッピングしすぎな感じがして気が引ける。
そうやってカートの中に入れてホカホカにあたためている本が2冊。。。
真名井さんの詩
最近、ファンになった真名井大介さんの詩!
いいなぁ〜、個展、いいなぁ〜行きたいなぁ♡
ゆだねた分だけ
まもられる
てばなした分だけ
たくされる
↓じょせふ!ジョセフを感じた一遍の詩。
生きるとは
銀河の風の
出口になることわたしたち
互いの窓を開け放ち
八万光年の
再会をよろこぼう
メタファーを通して触れる「世界の向う側」
どういうことかって、ちょうど今日読んだ『神話の力』でジョセフが言ってた「詩」についてのハナシとつながったのね。
究極的なものってのは、言語(思考)を超えているわけで、それは隠喩・メタファーでしか表現できないし、隠喩・メタファーを通してでしか「触れ」られない。
究極的なものってのは、どんな名を持つ神であれ、永遠(過去も未来もない、時間を超えた場)であれ。
詩ってのは、ジョセフいわく「隠喩から成る言語芸術」。
隠喩、そのコトバが指すものは、「可能性」。
そのコトバは神の仮面。
「目に見える光景の影に隠れた現実(ACTUALITY)をも暗示する」のが詩のコトバ。
それを通してワレワレは永遠というものが経験できる。
人間が求めてやまないのは、その「経験」。
生きている経験。
時間領域のなかに見える景色と、時間領域の外側にある永遠の場との接点にある、いのち。それを経験すること。
(ってことを言ってるんじゃないかと、私は勝手に思い描いてるんだけど)
人々はよく、われわれは生きることの意味を探っていると言いますが、人間がほんとうに探求しているのは、たぶん生命の意味ではありまん。
人間がほんとうに求めているのは、<いま生きているという経験>だと思います。
純粋に物理的な次元における生活体験が、自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。
それと、隠喩(メタファー)として受け取れるか否かってのは精神の成熟度に関わってくる。
幼い子どもは具体的にしかものごとを捉えられないように。
神話、神様の物語、カミという存在とか伝承とかそういうものを、
具体的で特別なものとして見るんじゃなくて、その奥底で表現されている(しようとしている)ものはなにか?って視点を持てるかどうか。
幼稚、未熟っていうとバカにしてるみたいに聞こえるかな(笑)
いや、でもいかに抽象度を上げ下げできるかってのはダイジダイジよ。
ハナシが噛み合わん人って、ハナシの抽象度が合わせられない人ってことだし。
コミュニケーションのトラブルはほぼこのすれ違いでしょ。。
このやりとりも、そのズレの典型例だったよね(笑)↓
さて、買い物にいかねば。