占いはイカサマ

西洋占星術を「診断ツール」としてじゃなく「自分の世界観を立ち上げるツール」として学んでいくことができんだろうかと、試行錯誤中。

 

 そいで前提として、(私のやりたい)占星術は統計じゃない、ってハナシをまとめてるところ。過去記事を拾い上げながら。

 

「占い」によく用いられる心理的な「トリック」と、統計について書いた過去記事

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そもそも統計学もいい加減な部分が多く、見せ方次第で印象操作ができちゃうものですよね。

科学的であれば「正しい」か、というとそれは科学を過信しています。子育てをしているママ達も実感としてあると思いますが、「これが科学的に正しい」という子育ての常識や健康法も世代違えば正反対のこと言ってたりしますよね。

統計からポンと飛び出す誤差・・・科学的態度であれば「これは何かの間違いよね」とはじかれるその誤差にも真剣に向き合って意味を見出そうとするのが、オカルトや占いの良さ(面白さ)だと思ってます。

目の前に現れた「偶然」ひとつひとつに神秘的な意味を見出す態度、世界と自分を結びつけようとする態度です。

 

その「偶然」から個々人が何を見るのか。何を感じ取るのか。どう心が動くのか。そこに焦点を当てて「物語の言語化」をするのが占いなのかな〜、と。それが、占いの面白さであり、未来に活用できる「実用的」な側面だと思います。

 

自分と向き合うツールとして、占いを活用する。オカルトや占いは思い込みの象徴のように語られるけど、逆に思い込みから自分を解放する、新しい視野を得るきっかけのように使えると思うし、そういう方向でどんどん受け入れられていけばいいのにね、と思います。

 

考え方を考える、俯瞰する、思い込みのパターンを知る。

これは教育でもビジネスでも子育てでも、本当に大切なキーワードです。

 

私どっちかってとアンチ「占い」のひねくれものなんだな、って思わされる過去記事。

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例えば生年月日や特殊な計算でタイプが分類されるとして

その「情報」から「自分らしさ」を与えてもらうのは、おかしい

 

「これこれこういう理由があるから、私はこうなんだ」

の理由の部分を、外部の情報(占いや診断系)や過去に押し付けるのも、違和感。

 

「使命」に関しても、そう。

「神託」を求めるのも、そう。

「過去世」に関しても。

上からのメッセージや導きに「責任」を預けちゃいけない。

流れに身を委ねるのと、自主的に生きる責任を外部に委ねるのは、全く違う。全く。

(これは自分に言い聞かせてる)

 

決めるのも、行動するのも、そこにどんな意味を見出すのかも、

決めるのは全部自分。

例え「神の意志」があったとしても、そこに「私の意思」が無ければ現実は作れない。

 

 

ホロスコープもタロットも、そこにあるのはシンボルでしかない。

 

それが現実・事実情報と合致しているかどうかではなく

シンボルをどう自分ごととして落とし込んでいくか。

 

物事に意味(理由、原因)を求めるんじゃなく

自分の目が捉えた現象にどんな意味を込めていくか。

どんな意味に繋げることを決めるか

 

 

神秘の存在に敬意を払う、ということは

自分に責任を持った態度で接するということ。

 

上か下かと優劣を作ってひれ伏してありがたがるんでもなく。

都合のいい時だけ神頼みで「消費者」としてコンタクトを取るんでもなく。

量子論や心理学、はたまた統計学を引っ張り出してきて「分かった気」になるんでもなく。

 

新しい関係性を持つべきだと思うんだよなぁ。

 

 

強くなくていい。ブレてもいい。

でも自分の命は自分で生きなきゃもったいない。

 

「使命」ってやつも実は壮大なもんでも特別なもんでもなく、

ただ命の使い道を部分部分で切り取ったもんだと思うのよね。

だからAさんやBさんは「今」自分が成し得ないことを

「今」の自分に代わってしてくれてるってことになる。

ある意味全員が特別で特殊なエラバレシ存在であるし

大きな目で見れば結局全部自分自身の一部なんだから羨ましがる必要もなく。

 

 

「私は何のために生まれてきたんだろう」

なんてなんも意味のない問いだと思うんですよ。

「で、私は何をしたい?」と問いを立て続けることに意味があるわけで。

人から与えられた「目的」ではなく、自分で創り出す未来を

 

ひとつの命を運ぶひとりの人間としての責任を。

ひとつの命のために網目状に繋がり広がる愛に感謝を。

 

 

なんかそんな感じ。

 

「占いは統計」発言にモーレツに違和感を感じて書いた過去記事。

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統計(平均値)は集団全体の傾向を把握するためのものであって、特定の個人を客観的に予測するには不向きなデータ。栄養の数値基準とか、赤ちゃんの発達の目安とか、性格判断とか、使いどころ(目の付け所)がズレていってる。

 

 

 

自分のコトバに説得力を持たせようとして「統計」や「科学」を持ち出したり、権威者(有名な人とか人気な人)の名前を出すんなら、それはイカサマだと思う。

 

私は「占星術」に客観的な正しさや正解を求めていないし、その人その人の、その瞬間に「意味」のあるものが提供できるかどうかってのはすごく主観的な作業だと思う。

「私(読み手)」を省いて出した「データ」じゃなく、聞き手×占術(ツール)×読み手の全体像を組み込んだその瞬間に浮かび上がるナニカが、占いのオモシロサなんだから、権威なんていらない。

 

ただ、その場に現れた意味。それ以上でも以下でもない。

イカサマ」ってもともとは如何(いかが)様、で「どんなふうに」「いかにもその通り」って意味だったらしい。そういう意味だと、占いはイカサマで如何様、なのかもしれない。

 

 

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