なんでこんな「当たり前」のことを手を替え品を替え言葉を尽くして語られないといけないんだろう。
なんでこんな「知るまでもない」ことを知らねばならぬと焦ったり、分からないことを嘆いたり、無条件に崇めたりするんだろう。
不思議だ。
言うまでもないことを、必死になって言おうとして、伝わらないことに落ち込まないといけないことが。
そんでもって、そんな「当たり前」で「知るまでもない」ことすらコトバ(思考)にできないことにショックを受ける。
「やっぱりね」「そうだと思ってたよ」「私の考えてたことを言葉にしてくれました!」
そう言って安心して、自分を慰めて承認欲求を満たす。そうやって他人に確認しないといけない虚しさは見て見ぬふり。
3次元を2次元で捉えている時点で抜けも漏れも確実なんだから。
目の前のマグカップを言葉で表現してご覧よ。見て触れて重さを感じて口に含んだ香りを。
その一瞬で得たすべてを。
その代わり余計なことも表現できるのが面白いところ。
三次元の外にある「時間的な」動きとか「心理的な」動きとかね。
視覚も結局2次元(ピントで工夫して奥行きを表現してるけど)だから、これまた「余計なもの」を挟み込むことができる。
幻とか夢とか問題として扱われる現象の中に。
数で分類するなら、最大値は∞で、図形で表すなら多角形のMAXは無数の角で繋いだ○円。立体なら球体。
円をグラフで分解すれば、サインコサインタンジェント、で波形を描く。波の動き、波動。
だから表現の差なんだって。
量子物理学であれスピリチュアルであれピュタゴラス派であれ仏教であれ占星術であれ。
「推し」がなにかってハナシなのかな。
自分の推し以外のその他の表現は全部自分の「推し」を補足、肯定するために好き勝手に引用される。
引き寄せとかシンクロとか。
占星術は円盤をぐるぐる巡る星の記号で。
Amor fati
この巡る「運命(法則)」をまるっと受け入れて愛せよ。
天命に安んじて人事をつくす。
Follow your own star.
自分の星に従え。
今読んでる小説、そういえばこのシーズンに驚くほどぴったりタイトル(笑)
そしてオドロキの内容。
グロテスクさと美しさは紙一重、というか 、同じものなのかも。