大嫌いなこと

コトバってのは、コトバにならないものを言葉にするために生まれた。コトバの存在理由はコトバそのものにある。

 

世界はそのままで全てなのに、それを言い表そうとしてコトバにするから、ますます遠くなる。説明しようとすればするほど、説明しようとしている本体がわからなくなっていく。コトバを重ねれば重ねるだけ。

 

分かりやすく、短く、シンプルに、言い表してしまうと、言い表されなかった部分(元々コトバにしたいと思った本体の99.9999999%以上)はなかったことにされてしまう。そしてコトバの部分だけが、全てなんだと、世界をうんと狭く、閉じ込めてしまう。

 

 

 

沈黙の雄弁さを、古い時代の人は良く知っていた。

 

 

 

それでも言わずにはいれない、コトバにせずにいられないのは、私がニンゲンだから。気高きケダモノには戻れない哀しいニンゲンだから。

 

 

 

日本語、英語、台湾語、中国語、ペルシャ語オランダ語、いろんな言葉で、世界を言い表そうとしてきた。その掬い上げられなかった部分、コトバに出来なかった部分が世界なんだわ。コトバに出来なかった部分を思い出したくて、コトバを学んでいるんだわ。

 

 

 

近づけば近づくほど、かえってゆけばかえってゆくほどに、コトバの「意味」はわからなくなってしまうジレンマ。

 

なんて哀しくて、おもしろいんだろうこの世界は。「好奇心」のせいで、究極の安心と安全から抜け出てしまった生命。コトバで遊ぶニンゲン。遊びのつもりだったのに、迷子になってしまった人間。

 

 

 

哀しくもあり、愉快でもあり、ひじょーに不愉快で、かなり上機嫌な、この状態を、「普通の社会」で表に出すとヤヴァイですので、フィクションの中で昇華するのでしょう。小説、漫画、絵画、音楽、舞踏。

 

なにも特別な才能なんて必要ないんだけど。だって、鼻歌でもいいわけだから。塗り絵だって、針と糸だって、なんだっていいんだから。

 

 

見えているものも、聞こえていることも、ほんのほんの一部でしかないから、もっともっとたくさんのことを知りたいし、思い出したいし、わかりたいと思うんだけど、人間ひとりじゃどうしようもないでしょ。

 

コトバが世界を分けて、ケーキをどんどん細かく切り分けながら、ホールケーキをまるごと食べたいと言っているようなもので、どうしようもないのはわかっちゃいるんだけど(わかっちゃいるつもりでいてなにもわかっちゃいないのもわかっちゃいるんだけど(それもわかっちゃいるつもりで・・・※繰り返し))。

 

だから人間はたくさん生まれてたくさん生きてる。色んな目、カタチ、空気の中で、それぞれのバックグラウンドと頭と声と物語とを持って。私ができないことを、誰かが今叶えてくれている。これって、本当に心強く頼もしいことだ。

 

 

きっとこのコトバも、瞬間に忘れてしまう。今まで書いてきたブログがそうだったように、私の記憶からはぶっ飛んでしまう。忘れることは悪いことじゃないのに、なんでそんなにいやがるんだろう?もったいないオバケが、コトバにして残そうとする。そのせいで、また、真ん中からどんどん遠くなってしまう・・・

 

 

「記憶」なんて、必要な時に必要な分だけ「思い出せば」いいだけなのに。思い出せないことを悩む必要はないのに。だって、思い出せないのは思い出す必要がないことだから。

 

 

どっちにしても、全部が全部 きのせい だから。ほんの一瞬の、気のせい。

 

 

sonogono.jugem.jp

 

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海のずっとずっと深く、深海から吹き出す温泉。そのバクテリアの説明書きを、どこかの水族館で見た。あれはどこだったっけ????生き物のいない「死」の水槽と一緒に、展示してあるあの水族館。。。

 

 

海の底は、宇宙に繋がっているという仮説。ポエムかよ、って笑われたことが結構トラウマなんだけど、割と本気でそうなんじゃないかと思ってる。

 

 

この「夢」のことはブログでも書いた気がするんだけど、見つけられない。海岸で、岩場からオッサンが海にダイブするんだよ。長い黒髪と黒ひげの、ちょうどイエス・キリスト的イメージな細身の男性。

 

海に私もダイブしたら、ドロドロだった。水面(海上)はキラキラしてきれいなのに、水中は生ぬるくてドロドロ。死んでるか腐ってる。

 

細かい部分は忘れたけど、コトバで覚えてるのは「胃袋だ」ってこと。地球の胃袋だ、って思った。海の中で。

 

 

ここにコトバで「意味」を繋げていくのが占い界隈の仕事なんだけど、そのままでもいいのかもしれない。覚えているってことはそれだけで意味のある事なんだし。

 

でも今日見つけたアレやコレ、全く同じハナシだったことが、ただ面白かった。なんだ全部、自分の中で考えたり見つけたりしてきたものじゃないか、って。

 

 

確認作業は、楽しい。安全だから。もう知っていることだから。そこから先の世界を見ようというんなら、不快なほうに進めばいい。心理的な抵抗があるほうに。

これは最近流行りの「ワクワクに従え!」「好きなことだけを追いかけろ!」ってのと相性の悪い説かもしれない。でも「タマシイの声に従う」ことは、好きなことだけとは限らない。心地いい温度の外に、新しい潮の流れがある。

 

 

 

私は、「コトバにする」ことが好きだけど、大嫌いだ。でもどうしようもない。これは人間の本能なのか?私「個」人のタマシイの声なのか。

 

 

そろそろ目が覚めてきた。長時間、「あわい」波打ち際にいようとは思ってないから、心配しないで。波打ち際は、アチラとコチラの境界線。アチラから見ればコチラは死者の国、アチラが生者の国。

 

境界線は(現代の)私たちが思ってるほどクッキリと分かれていない。昔の人は曖昧な境界線のことを「体感」していたんだなーとビックリ。