ふかふかの土であれ。芽吹きたい種があなたのもとに運ばれてくるのを心待ちにしているのだから。

 

世界は美しい、と。

美しいものを、美しいと言おう。

 

美しいと感じた心を、感動を、その世界の美しさを丁寧に描写する。言語という記号で書き表せない部分に、声という空気振動からは聴き取れない部分に、その感動のエッセンスがある。

 

そのエッセンス(成分)が、「愛」の素なんじゃなかろうか。

いや、愛そのものなのかも。

 

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「なにひとつ永遠なんてなく、いつか塵にかえるのだから」

 

10年以上前に、ある印象的な夢についてブログに書いたんだけど、あの夢のことを思い出す一文。私の土台になっているいろんな思想(世界観)のなかで、この夢で感じたことも重要な一角を占めているように思う。

 

じいちゃんと写真撮ったり、観光したり、なんだかすごく楽しい時間。
あっ て気付いた。お別れしなきゃいけないんだって。
もうじいちゃんはいないんだった、死んでたんだったって。
(ストレートな表現はキツイけど、でも実際そんな風に思った)

 

そうなるとすごく、とてつもなく悲しくなって
こんなこと気付かなきゃよかった!!って後悔した。
そうそう、明晰夢ってやつ。これは夢だ!!って気付いてるパターン。

 

わんわん泣いて、もう鼻水もたらして、悲しさがどんどんあふれた。
その横でじいちゃんは穏やかーに微笑んでこっちを見てる。
何か言ってたかな、思い出せないな。

 

忘れていく。


一緒に撮った写真をぐっと見つめて忘れるもんかって思うのに
だんだん薄れていく。写真の中のじいちゃんが薄くなっていって
忘れていくことも忘れてしまう過程を外から感じ取ってる。
ザラザラって、砂絵がゆっくり崩れてしまうみたいに。

 

忘れてしまうのが怖くて、悲しくて、もっと激しく泣くんだけど
もうなんで泣いてるのかもわかんなくなって
私はほかのこと(友達だとか、趣味とか)に気が向いていく。

 

ここからがいちばん不思議で、いちばん印象的。

 

ざらざらーって、ほんとに砂そのものになって風に飛ばされてく映像!
テレビで見てるみたいに、映像を眺めてる感じ。
何が崩れていくのかって、うまく説明はできないんだけど
それは「じいちゃん」であって「思い出」とか「記憶」そのものであって・・・。
風に巻き上げられてぐるぐるーって竜巻になる。

 

んで、あー!って納得する。
土(地球)に帰ってったのか。って。

 

・・・なんだそりゃ(笑)

 

でも、ほんと、ストンって納得したのだよ。
すごくスッキリして、ちっとも悲しくもならなかった。

 

もともと記憶とか思い出ってやつは砂の粒の集まりみたいなもんで、
特定の時と場所と思いが固まって一個のカタチに残ってるだけ。
(いつのまにか出来てる はなくそみたいに。)


それがちょっとずつ、風化して砂塵に戻って行ったとしても
私は何も失くしてないわけで。

 

「もとあった場所に戻った」だけなんだってこと。
私個人が作った思い出・記憶が砂つぶに融けて行っても
その思い出・記憶はその場に残る。

 

私が忘れてしまっても、土(地球?)が覚えててくれる。

 

そうやって作って壊して、人間の記憶の世界は耕されてるのかもしれない。
悲しいことも、嬉しいことも、恐ろしいことも、楽しいことも。

 

sonogono.jugem.jp

 

さてさて冒頭にリンクをはった別館ブログの記事で、長田弘さんの詩の朗読を貼ってるんだけど、こっちでも紹介。まずは『最初の質問』

 


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応えてみてね、質問。

 

「答え」ではなく、「問い」でこそ僕らは繋がれる

 


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詩、歌、物語は、自分に響くトキってやつがある。その音が心に反響するタイミングは人によって違うし、その人のなかでも違う。

 

小説というものは、人生のしかるべきときに出会わなければならないということを示唆している。

覚えておくのだよ、マヤ。ぼくたちが二十のときに感じたことは、四十のときに感じるものと必ずしも同じではないということをね、逆もまたしかり。

このことは本においても、人生にとっても真実なのだ。

 

 

ちなみに長田弘さんの詩を聴きたくてビデオを漁ってる時に出会った『旅の仲間ラジオ』。長田弘さんの詩集が紹介されているのは第17回↓

 


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これもおもしろくってねぇ!!

なくてはならないもの、ってのは「所有できないもの」なんだ、って。所有できないものこそが、人生を豊かにしてくれている。近現代の価値観からすれば矛盾したハナシに聞こえる。

「もっている」ことに豊かさを見出す時代を生きる我々だから。

 

豊かさ、安心感を所有を基準にしちゃうから、減っちゃったらどうしよう失くしたらどうしようと不安が生まれる。「与える」ことが損することだと思ってしまう。本当は、与えることこそが豊かさと喜びの源泉(愛の本質)なのに・・・ってのはエーリッヒ・フロムの主張だね。

 

 

しかし天王星が牡牛座の革命をギュンギュン進めてくれている今、豊かさ=所有じゃない!!と気付きが広がっている今日このごろ!

 

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なにをもっている、なにができる、なにをやりとげたか、なにを目指しているのか、それ全部ふっとばされたとしても、「生かされている」そのことへの安心感と、よろこびを、思い出せること。それが癒やしってことだよね。

 

痛みをごまかすこと、快楽を得ることが癒やしではないんだな。

 

上のラジオで紹介されている詩『大いなる、小さなもの』も、隕石落ちるよ。

 

替えがたいものの話をしよう。


それは、たとえば、引き出しの奥にある、
百年前の木でつくった一本の鉛筆のようなものだ。
古い木箱の薬箱のなかにある、
魂に効くという、苦い散薬のようなものだ。

あるいは、箪笥のなかにある、
ひそやかな、懐かしい時間のようなものだ。
千の旋律、千の悲哀、千の思い出のようなものだ。

マルティヌーの「ダブル・コンチェルト」や、
メシアンの「鳥のカタログ」のような、

それから、ことばだ。それも、
どうしても、ことばにならないことばだ。

そして、思いだそうとしても、思いだせない、
しかし、もう一ど、確かめたいと思うことばだ。

 

替えがたいものは、幸福のようなものだ。
世界はいつも、どこかで、
途方もない戦争をしている。

幸福は、途方もないものではない。
どれほど不完全なものにすぎなくとも、
人の感受性にとっての、大いなるものは、
すぐ目の前にある小さなもの、小さな存在だと思う。

幸福は、窓の外にもある。樹の下にもある。
小さな庭にもある。

ゼラニウムペンタス。ユーリオプシス・デージー
インパチェンス。フロックス・ドラモンディ。
目の前に咲きこぼれる、あざやかな
花々の名を、どれでけ知っているだろう?
何を知っているだろう?何のたくらむところなく、
日々をうつくしくしているものらについて。

 

 

さあ、双子座流星群。

コトバのメテオシャワー。

 

数撃ちゃ当たるのマシンガンではなく、

ことばにならぬそのコトバが、

祈りを込めたそのコトバが揺らす大気を感じよう。

 

深呼吸したら、余韻にひたりつつ次の隕石を受け止めて↓


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別館ブログの記事の方では『森の中の一日』『世界は一冊の本』の朗読ビデオも紹介してるから、ぜひ聴いてみてね。

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上にリンクはった『旅の仲間ラジオ』ではタゴールの映画についてはなしてたんだけど、タゴールも素敵な詩人だよ。確か、大学生の時に図書館で出会った記憶がある。

 

この朗読にも、心臓(ハート)ふるわされた。

 

百年後


いまから百年後に
わたしの詩の葉を 心をこめて読んでくれる人
君はだれかー 
 
いまから百年後に?
早春の今朝の喜びの 仄かな香りを、
今日のあの花々を、鳥たちのあの唄を、
今日のあの深紅の輝きを、わたしは
心の愛をみなぎらせ 君のもとに
届けることができるだろうかー

 

いまから百年後に。
それでも、ひととき

君は南の扉を開いて窓辺に座り、
遙か地平の彼方を見つめ、物思いにふけりながら
心に思いうかべようとするー

 

百年前の とある日に    
ときめく歓喜のひろがりが、天のいずこよりか漂い来て
世界の心臓(こころ)にふれた日のことをー
いっさいの束縛から解き放たれた 奔放で うきうきした
若やいだ早春(ファルグン)の日のことをー 

羽ばたく翼に 花粉の香りをいっぱいのせた
南の風が にわかに 吹き寄せ 青春の色調で
大地を紅く染めたのをー

 

昔の時代(とき)から百年前に。
その日、生命たぎらせ、心に歌をみなぎらせて
なんと詩人は目覚めていたことか
どんなにか愛をこめ どんなにか多くの言葉を
花のように咲かせたがっていたことか!
百年前の とある日に 

 

いまから百年後に
君の家(うち)で、歌って聞かせる新しい詩人は誰か?
今日の春の歓喜(よろこび)の挨拶を、わたしは その人に送る。
わたしの春の歌が、しばし君の春の日に こだましますように。

 

君の心臓(こころ)の鼓動のなかに、若い蜂たちのうなりのなかに、
そして、木の葉のざわめきのなかにも、こだましますように。
いまから百年後に。

 


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トキを超える祈りじゃねえか、これは。

 

 

日本人が思い浮かべる、時代を超えて読みつがれる語り手、詩人といえば宮沢賢治。星や鉱物の世界観がちりばめられているから、占星術好きな人は心掴まれた人多いんじゃないだろうか?

 

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

宮沢賢治

 

 

『旅の仲間ラジオ』第8回で、「詩人は土壌」ってはなしもあって。

これは第4回アーシュラ・K・ル=グウィンを紹介していた回の「大いなるものの通路であれ」ってハナシにも通じる。グウィン作品大好きな私大喜び。ああ、これはBIG MAGICだ✨💫なんて思いながら。

 

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そしてグウィンの語り手としてのコトバをもっと聴きたくなって、これも積読リストに追加。

 

 

アーシュラ・K・ル=グウィンへの憧れが散りばめられてる過去記事↓

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「詩人は土壌」のハナシの中で触れられていたのは・・・

暗闇(沈黙)の向こう側に、ホンモノ(真実)はある、ってこと。

 

ホンモノの深いものってのは、コトバを奪う。

コトバはワタシの現れ、だから、その場所にワタシはいないってこと。

 

ホンモノにふれるとき、われわれはワタシを失う。それは「自分を見失う」ってことじゃなくて、全く逆で、ワタシがワタシとして(コトバで)切り分けられる以前の、世界そのものと一体だった頃を思い出すってことだと思う。

 

このコトバ観は一貫して、子育てや教育ってテーマの中でも、私の中心にある。私はコトバを信じる。でも美化はしたくない。それは記号であって、ホンモノはコトバの向う側にある。

 

確かに「言霊」ってやつはある。

 

Name it to Tame it(ネイム イット トゥ テイム イット)って言葉がある。「名付けることで、それを飼いならすことができる」って意味だね。従えたくば名を与えよ。

 

名前(真の名だったり、正体)を見破られた悪魔が姿を消す物語は世界共通にある。日本だったら、『大工と鬼六』の昔話が聞き覚えあるかな。

 

 

物語の中で「名を与える」ことは、魔術や呪術、神秘的なチカラとして描かれる。魔法の呪文のことを英語ではモロにSPELL(つづり、コトバの並び)って言うもんね。

日本語だと「言霊」って言葉がある。言葉の呪力。漢字の「呪」も「口」と「兄⇐頭部が強調された人の絵」からできてるし。

 

「音の並び」、「意味を指定する記号以」上のナニかを、感じ取っているんだろうね。ニンゲンは。そのナニかの力というか、エネルギーというか、影響力みたいなものを、言葉にならないものを言語化して表現したのがこういったお話の類だと思うの。

 

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でもそれはコトバの魔力にだけ注目しているから、私はそれをちやほやすることを好まない。その奥にあるホンモノ(沈黙)にこそ、価値があると思う。

 

まずコトバは「月を指す指」だってことを自覚しないと。

 

「月」を伝えようと思って月を指さす。

その指は月を指し示してはいるけど、、指は月じゃない。

それなのに人はそのさされた指を見て「月」だと思う。

 

ちなみに大拙は、「指」は「コトバ」だって言うてるよ。

言葉は便宜上、それを指すために使ってるだけなんです!って。言葉に有難がったり言葉をあげつらったりするよりも、生身の身体(経験)を通して世界を感じようぜ、ってのが禅という生き方。

 

しかしなぁ。。

月を指す指どころか、その指をさしてる「人」にむらがるのがニンゲンあるあるなんだろうな!

 

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指の向こうにあるホンモノ、それを私につなげるコトバについては、あの過去記事(「名」を与えよ - STAR SHIP☆星読み航海図)で散々書いているからここで改めて書くことはよしておこう。

 

ああ、そう、沈黙。

沈黙について書いた過去記事もはっつけておく。

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詩人はただ場所、土であるわけで、そこから勝手に植物や生物が発生するわけじゃない。鳥や虫や風が運んできた種を、地中であたためて、そこから芽が出る。それは地続きの誰かの土地からやってきたものかもしれない。

土である私にできるのは、ふかふかの、肥えた土壌を耕すこと。

 

運ばれてくる種、ってのはBIG MAGICかもしれないね(^o^)待っているのは、種のほうかもしれない。芽吹く場所を求める種がね、私やあなたを通過していく。

 

 

通過していく、といえば『旅の仲間ラジオ第10回』で整体師さんの対談本が紹介されてて、その中で「感情は通過するもの、所有物ではない」ってハナシもあったのを思い出した。

そうそう、「月」(感情)はうつしとった像だもの。他者、社会、幼少期にインプットしたお手本の人間像の動きを同期してるだけってこともある。

 

 

いやはや、おもしろい。

大量にダウンロードしたKindleサンプル積読本から購入する本を厳選して、それをちびちび味わって読むのが最高のミータイム。