人間の身体は食べるものでてきてるように、人間の精神は摂取する情報で構築されてます。自分に必要な《情報の筋》から精神の栄養を取りませう。
アスリート系の生活をしてる人にとってタンパク質たっぷりとる必要があるけど、お野菜いっぱい取った方がいい人もいるよね。同じように、触れるべき《情報の筋》ってのは人によって違う。
自分のクリティカルヒットする《情報の筋》でも、相手には不要どころか害になることだってあるだろね。
違う《情報の筋》を選んでいるとしても、それぞれのホーム画面やらタイムラインのデザインが違うってだけなんだから。それって、当たり前のことでしょ。
「あの人のこと信頼してたの。同じ景色を見てると思ってた。でもこないだ彼のタイムライン見たらね・・・私と全然違う投稿が並んでたの。裏切られたわ」って言う人いたら、ホーム画面の仕組みがそうなってるんだよ、って教えてあげて。
別に悲観しなくてもイイ。
どーしても共有したい情報があるならすればいいだけで、いちいち別途「イイネ」を強要したりしないでしょ?イイネしてもらうことが目的だとしたら、話は別だけど。
世界が変わってしまったわけじゃなくて、これまでもそうだったけど「それが見えてなかった」だけ。そんなこと考えもしなかったってだけでしょ。
「私とあなたの頭の中が違うだなんて、考えもしなかった。だって、同じ”のーみそ”って臓器を持ってるのよ」外から見たら同じ”のーみそ”って臓器だけど、中から見た外は全然別ものなの。
勝手に期待して、勝手に幻滅するのはよくあること
(特に親しい間柄は!)
相手に期待するのがこわくなって、関係性をつくるのがむずかしくなるのも、わかる。「幻滅」ってコトバはふぉわ~って消えていくような響きがあるけど、そんな優しい刺激じゃないもの。
そんな目にあったときは、痛いし、苦しい。
逆に幻滅されることが怖くて、他人と距離を保とうとしちゃうのもわかる。距離が縮まったように感じるとふいによそよそしくしちゃったり、親密さの一歩手前でひょいとはぐらかしたり。
痛いのは誰だってイヤさぁ。
痛めつけられるの大好き♡ってマゾっ気が強い人以外の大多数は、痛いのも苦しいのも避けちゃうのがふつーさ。ふつー!!生物だもの。
でも、想像してごらんよ。
ベイビーが積み木の玩具に触ろうとした瞬間にバッと抱きあげて「お~~危なかったでちゅねぇぇ、痛くなかったでちゅか?かわいちょうに、かわいちょうに」とほおずりして抱きかかえたまま「もうこんなところはメンメ!でちゅね、ママンがず~~~っと抱っこしててあげまちゅからねぇ。安全でちゅよお」なんて、やりすぎでしょ。
「それは成長のためだ!傷は漢(オトコ)の勲章だ!!耐えるが美徳!!!」とまでスパルタになる必要はないけど、過剰反応して危険因子を全て事前に取り払うと、オモシロイかもしれないものも全て取り上げてしまってるってこと。
もし痛い目にあったとしても、「痛かったね」と「怖かったね」「びっくりしたね」とぎゅっとしてもらえたり、ケガをしたときはそれなりの手当てをしてもらえるなら、それで十分じゃない。
痛みを疲労骨折までため込んだ末に、麻酔ぶちこんでぼーっとするような荒療法してる人いませんこと?
痛かったら、痛いって言ってもいいのよ。自分で処置できないなら、出来る人に手伝ってもらおう。そのほうがコスパいいよ。
ほんでもって、麻酔の世界に入り込むと判断能力落ちちゃうのが、ちょっと危ないなぁって思う。弱ってる人につけこむ悪人はほんの少数だろうけど、大多数の麻酔針を(善意で)提供してる人は無免許のシロウトドクターみたいなもんじゃないか?って気もする。(私のぱっと見の偏見ね)
スッキリしてる頭だったら「あ、この針ちょっとゆがんでますな」って見えるもんが、もう痛みでフラフラだったら気付かないでしょ。麻酔の針を打たれてしまえば後の祭りだし。
あ、一応補足。特定のナニカや誰かを批判してるわけでなく、私の印象、かたよった偏見ですからね!!
ほんまに必要なセーフティネットって、極限状態の麻酔処置をする仮設テントじゃなくて、小さな救急箱を取り出してくれる人たちの存在でしょうな。
みんながみんな、誰かのためのセーフティネットになれる。網の目のひとつに。
というか、そうなっていくと思うよ!世界は!
これからの世界と「私たち」
私は基本「社会を良くしよう!!(だってこのままじゃダメだから)」って考え方はしておりません。善意の活動はこの視点がすごく多い。今のままじゃダメだ、私たちがどうにかしないと、って。
そりゃやばい方に突っ込みそうなときはブレーキを踏んで方向転換が必要だけど。一歩間違えると「胃が弱い夫に油物を作っては痛がる彼をみて号泣しながら看病している妻」になりかねん。無意識にね。
※姉姉が引用していたハナシを引用( ´艸`)
ニンゲン、「ほらやっぱり!!」を見つけようとする無意識の本能があるからね。何を掲げるか、よりも何をその「前提」にしているのかがひっじょーーーーーにダイジ。
私はある意味「楽観的」なのを好むけど、それは「放っておけばいいじゃないの~」って責任放棄とは違う。能動的な楽観派、といいますか。
私たちには「善き未来を共創するチカラがある」と信じたうえで、じゃあどう行動を起こそうか、って視点。
上に挙げたような善意の活動グループが持ち出す「私たち」ってのは、「私たち以外(悪の存在、好ましくない思想、あっち側の人)」と対比した「私たち」なんだけど・・・そうじゃなくて、ほんまに全部ひっくるめた「私たち」ね。
いくつかの言語には、相手を含む「私たち」と、含まない「私たち」が違う語として別々にあるんだけど、日本語はどっちも一緒よね。
私が言う「私たちには善き未来を共創するチカラがある」の中の「私たち」は、相手も含むほうの語です。
”わたしたちが抱く信念は、真実であっても想像であっても、同様に命が吹き込まれ、世界に変化をもたらす”(Humankind 希望の歴史 上 人類が善き未来をつくるための18章 (文春e-book))
どんなふうに世界を見る?目の前の相手と接する?何を信じる?自分はどうふるまう?って、それだけでもえらい違うと思うんだ。
神社仏閣教会の「罪悪感リリース」という機能
さてさて冒頭の岡田せんせの動画では神社仏閣、教会を「欲望や罪悪感をリリースしたいときにコスパがいい」って視点で語ってるのがおもしろい(笑)
自分の抱えきれる分だけの責任感を残して後は神さまにポンと預ける、たしかにそんな機能があるなぁ。信心深い人は怒るかもしれないけど、そこで人の心に起こることに目を向けると、確かにそうなんだよ。
何が起こっているのか、ってのを言語化しただけだから、「神はいるか」「神社仏閣の意義は何か」ってのは論点が別だからね。
「祈り」が人の心を救う仕組みも、そんなふうにも説明できるなぁって思った。
あ、「祈り」と「願掛け」は違いますからね。
変えることができないものを静かに受け止めるチカラを
変えるべきものを変える勇気を
そして変えられるものと変えられないものを見分ける賢さを
― ニーバーの祈り
天命に安んじて、人事を尽くす。
まさに「他力本願」ですな!!!他力本願は責任放棄じゃなくて、二ーバーの祈り的なスタンスじゃないだろーかって思ってる。
フィクション(物語)の活かし方
岡田せんせの動画後半、「フィクションで得られる気付き」について。私はフィクション、ファンタジー、物語がめちゃくちゃ人生に役に立つって信じてる人なんだけど、岡田せんせが説明してるのを聞いて「人生の役に立たない物語の読み方」をしてる人がいるのか!!!と驚いた。
自分に結び付けない、行動に結び付けない、それで人生が変わるわけがないじゃない。。。やっぱり、ピント調整能力(私はこれを占星術で鍛えられると思ってる)スケールを自分から拡大縮小するがダイジだよな!!!
ファンタジーの世界ってのは、目の前のリアルな現実(A)をとことん見つめた目を、ずんずんずんずんズームアウトして、めちゃくちゃ大きな枠で捉えたあとで、そこからまたピントをずらしてかなり至近距離までズームインした現実(A’)なんだと思う。
だから目の前の現実とかけ離れている世界を空想世界に描いているようで、実はそうじゃない。全く同じ世界を、ほんの少しずらしただけのリアルな現実なのかもしれない。
別の層の現実というか、パラレルワールドというか。
そのずらしたピントを自分に引きよせて再調整することで「気付き」があって、視点の変化があって、それに応じた行動の変化があって、結果的に人生が変わる。
占星術の標語「As above, so below(上なるものは下の如し)」ってのも、この仕組みのことを言ってるんでしょ。だからね、占星術はこの仕組みを元に「視点スケールを自由自在に動かす訓練装置」「世界を見つめるピント調整機能についてまとめたデータベース」だって私は勝手に納得している。
見える部分も見えない部分も、これ以上含めきれないくらい大きな範囲から、これ以上分割できないってくらい最小単位まで、全部ひっくるめて「見てみよう」ってハナシだと思うんだよね。
最近読んだ『熱帯』はフィクション(物語)の極み!!!ってなもんで。
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んで、物語を楽しもうぜ!って企画がこれだよ、来週だよ!!
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