でもこれはオバケ(幽霊、ゴースト)というより「妖怪」とか「モノノケ」ってやつですな!
もののけネタはこの本がおもちろかったなぁ!!
ファンシーな空想生物としてではなく、おどろおどろしいオカルトでもなく、自然とニンゲンの関係性から見えてくる「モノノケ」の姿。
「もの」ってのは、物質的な存在(物)や誰か(者)という意味以前に、もっと根源的な存在感(タマシイ)を表すコトバだったというハナシもあったっけ。
すごく漠然とした、サムシングでありサムワンでありスピリットでもある、日本語らしい淡いすてきなコトバだな~って思う。
その存在感たるや「蠅声なす(さばえなす)」「能く言語有り(よくものいうことあり)」と表現されるほど。草も木も石も、よく喋っていた。人にもその声が聞こえていた時代があった。
「信仰」とか仰々しい言い方をしなくても、自然に耳を傾ける姿勢を大切にして生きていた、ただそれだけなのかもしれない。いや、「自然」という言葉自体が輸入されたコトバ(※)だから、そもそもわざわざ言葉にして取り上げる(考える)必要がないほど、自分の生活と、命と、一体のものだったんだろうな。
「鬼」に縁がありそうだね、って言われた今日(笑)
「鬼」は自然のメタファーでもあるし、かつて生きていた自分たちとは違う種の人々に対する蔑称でもある。どっちにしても、たしかに好きかもしれない(笑)
神話や土地(聖地)は、記憶の保存場所って捉え方がある。
個々人の記憶じゃなくて、集団で共有する記憶。
もしかすると、今はコミュニケーションの手段が断絶されて全く異質なものも、かつては記憶を共有する「身内」だったのかもしれない。その懐かしい記憶を求めて、人はそういう土地に赴くのかも、なんて。
「環世界(ウムヴェルト)」ってのは、ニンゲン、犬、植物、虫、みんなそれぞれに違う世界軸の中で生きているってこと。時間の感覚も、空間の把握方法も、何を知覚して生きてるのか、生物それぞれに違う。なんなら、鉱物とか山とか、地球とかって規模で見ても、そう。
全く違う宇宙に生きてる。
人と植物、鉱物や大地とコミュニケーションがむずかしいのは、世界観(時空)のスケールが違うだけ。あれか、ワレワレが「次元が違う」って言ってるのと近いかな。
相手にとって1分1秒の世界が、私にとって1年に相当するなら、会話ができないどころかお互いの存在に気付けないかもしれない。
なんなら同じニンゲン間でも、世界軸のギャップは大きくなってるのかも。
だからこそ、自分たちの言語(母国語、外国語を超えて、身体言語や音波や嗅覚信号も含む)を超えたコミュニケーションスキルが大事になってくるのかも。
自分の理解の範疇を超えたこと、納得できないこと、わからないこと。
それに対する態度の成熟が求められる。
それって、「ま、人それぞれだからね」って言って多様性認めてますアピールしつつシャットアウトすることとちがう。
「ま、人それぞれだからね…」と言ってその先に踏み込まない人たち。その封じ込められた失った不満とか小さな違和感が、「気の合う人たちで固まって(異質な)他者をアッチ側認定する」人たちの背景にある。
現在進行中プロジェクト
今ね、太陽しし座入りの「質感」と、それを受け取る新月の位置取りを読んでおります(もうすぐ更新できそう!)
これ(暦の術)もまた、声なき声を聴きとる感覚磨きなんじゃないかな!
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