昨日もちらりと紹介したけど、今《Factfulness》読んでます。
結構前に話題になった本(2019年の出版)なんだけど、これがまぁなんとも、オモシロイ。想定読者層がビジネスマンだからか、身近な経済(ビジネスチャンス)にも絡めて例を挙げているんだけど、ワレワレ精神世界LOVERSも読んでおきたいこの一冊!
直感的な判断が、いかに間違えやすいか。
確かに直感(直観)は理屈じゃ届かない真理に繋がっている。ロジックじゃ発見できない関係性に気付いたり、小さい頭じゃ思いもつかない展開や裏側が見えたり、そういうチカラは存在する。
でもその手の直観は「深い直観」の場合。洞察力。
「私は直感派だから!」という人がとんでもない失敗を犯すのは、それが「浅い直感」だから。直感と言うか、「本能の層で起こっている反応」だから。
原始的な反応である「浅い直感」と、本質を見通す「深い直観」は全く別物。時に正反対のリアクションを生むわけだから、本当に気を付けたほうがいい。
気を付けるってどうやって?
予備知識というか、心がまえ。
ピン!ときた情報ひとつひとつにいちゃもんつけたりチェックするのはオモシロクないからしたくないんだけど、事前に心構えがあるかないかで「あ、これは反応だ」と気付くことは出来る。
「原始的な反応」に振り回されたり、ありがたがったりするのは、私は好きじゃない。できれば避けたいって思ってるほう。
そういうのが好きって人ももちろんいる。原始的な反応は心地よかったりその場を処理するのに楽だったり、メリットもたくさんある。(だから今もニンゲンの中にキョーレツに残ってるわけだし)
「直感派」の人は、占い好きな人、スピリチュアル好きな人、オカルト好きな人、多いと思うんだよね。占いとかスピリチュアルなアレコレに触れるなら、「浅い直感」と「深い直感」の違いは知っておいた方がいいと思う。
「深い直感」の方は言語化されてない情報源を指してるなんとも言えないんだけど、「浅い直感」のほうは心理学なり生物学なりなんなりで「分かりやすく」色んな人が説明してくれてるから。
今読んでいるこの本も、私たちが「正しい判断(直感)」だと思ってる「原始的な反応」トップ10を紹介している。その中で、占いとかスピでアイタタタってなりがちな反応をピックアップするなら・・・
★世界は分断されている(分かり合えないアッチ側)という前提
★恐怖心・ネガティブな情報の影響力
★「宿命」に囚われて変化に気付けない
★単純化したパターンに全て当てはめようとする
★犯人捜し(どこかに悪玉がいるという決めつけ)
「直感」だと思ってるソレ、「原始的な反応」にのっとられて思考停止しちゃいないかい?ってこと。
なんでもかんでも理屈ゴリゴリに分析しようってんじゃないからね。
浅い直感で暴走してしまうと、その先にある深い直感と繋がることができないでしょ、ってこと。
浅い直感に絡めとられないためには
自分の肩入れしている考え方(情報)の弱みを常に探す姿勢を忘れないこと。
自分に賛成してくれる人とばかり話す
自分の考えを裏付ける例ばかり集める
これはマズイ。ひじょーーーーにマズい。
昨今のスピな「訓え」ってこんなふうに「読解」されてる気がするんだけど、どうなの。この読解を極めたらどうなるかって、凄惨な歴史の例があるでしょ。
このグロテスクな歴史の例をこれ以上繰り返したくないから、一歩引いた視点での「訓え」があるんだと思ってたけど、これじゃ逆効果じゃないか。
私も、目を瞑ってるニンゲンのひとり。
見たくない、聴きたくない。
だから「占星術から離れたい」「占いネタを全部切り離したい」ってグズグズ言い続けてるのさ。こわいから。見たくねぇニンゲンの(自分の)恥部をまざまざと見せつけられるから(笑)
自分に賛成してくれる人とばかり話す
自分の考えを裏付ける例ばかり集める
オレじゃん\(^o^)/
恥部を晒すブログ。
そりゃヘンタイだわ。
読んでるアナタももれなくヘンタイだわ。
受け入れがたい「リアル」を消化するために、人はすごい装置を発明した。それが物語、ストーリー。例えばそれは本、会話、ノンフィクションもフィクションも。
前世とか来世とかも。「今」と繋がっているけど「リアル」そのものとはちょっとフィルターを通して触れてるこの距離感。
距離感は人を癒す。
その一例。リアルからワンクッション距離を置くことで、私たちはリアルを吸収してリアルを生きられる。そのワンクッションが、物語。
それはウソって意味じゃない。作り話かっていうと、それもまたちょっと違う。そもそもニンゲンの精神は構造上作り話の中に生きてるんだから(脳の記憶をつくる仕組み的に)、作り話をリアルと設定して生きてるワレワレが作り話をウソかマコトか論じるのが的外れな気もする。
さて私の今抱きしめているクッション。
「罪悪感」と「罪」は全く別物。
「罪」を罪と認め、自分の責任を受け入れられないとき、その後ろめたさが「罪悪感」としてつきまとう。罪悪感は、深いところまで染みこんで「業」となる。業はニンゲン一生分のタイムスパンを超えて染み出す。
どこかのタイミングで、罪を認めないといけない。それを先延ばしにしても、結局「別の自分」がそのバトンを引き継いで、更に落としにくくなった染み抜きに時間を奪われちゃうんだから。
私には、罪(責任)を引き受ける力がある。強さがある。
そう信じられるように、これまでの時間が費やされてきた。今改めて浮上してきたのは、もうそのチカラは十分集まったんだよ、育ったんだよ、ってこと。
臆病で疑り深い私のために、コトバで記してきたんじゃないか。