「情」の「緒(いとぐち)」にふれるトキ

『深い河』もそうだけど、前回のプロジェクトからサイドストーリーがいっぱい登場で、伏線回収のオモシロサにお肌の調子がよいわたくしです。

 

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↑この過去記事の中身そのものがぐるりとまわって今この瞬間に向けて投げかけられたメッセージじゃあないか。

 

メッセージ、空飛ぶ柿の種。。。

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そしてそして、丁寧な感想もいただけて、ほろほろ。

 

……の物語を読ませてもらったことで、文字通り救われた(掬われた)気持ちです。……

 

いただいたメッセージのこの部分を読んで

「掬われる」ってのは一方が一方に働きかける(かけられる)動きじゃないんだ!

とハッとした。

 

物語も、読み手に掬われて(救われて)いるから。掬う⇔掬われるは同時に発生している。これもまた、入れ子状の構造でさ、すくい上げた世界の中に、すくわれている自分がいて、自分が読んでいる物語の中に、物語を読んでいる自分がいて、その自分が読んでいるのが、今の物語を読んでいる自分の物語で…

いったい外側なのか内側なのか、目が回りそうな展開。まるで『マギ』のクライマックス。

 

 

物語が参加者さんによって掬われ(救われ)て…

私もただの仲介者、媒介者としてではなく、当事者として、っていうのかな。その瞬間の交差する運命に立ち会える喜びというか。やっぱり、このプロジェクトはオモシロイなぁ、って思うのです。

 

 

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それから今回は、直接ストーリーに登場はしていなかったんだけど、「鎮魂」の要素も大きかったなぁと個人的に思ってて。

 

掬いあげられることのなかった物語、記録に残らない異聞、サイドストーリーに意識が流れたから。切って捨てられる部分、正史や統計からはみ出る部分、例外や誤差として切り捨てられる部分。そこに光を当てたかったんだな、って。

 

思い出されて、存在を確認されること。声を聴いてもらう、受け入れてもらえること。そこで起こる「癒し」のチカラは凄まじい。

 

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私が、じゃなくて、私をとりまく何かが。私と参加者Yさんのあいだに交わされたナニカかが。

 

 

ああ、そうだそうだ!それが「情」ってやつなのかもしれない。

岡潔氏の言う、「情」。

 

これはエリザベス・ギルバートの言うBIG MAGIC的なもの、かな。

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「心」と言ってもいいけども、「私」に固着した心じゃなくて、私もあなたも人に限らずアレもソレも自在に通り抜ける、もっと大きなエネルギーのようなもの。

 

「情」の緒(いとぐち)は環境の至る所にあって、それを受け取るとき、感じるとき、私達は心(身からだ)を動かす。感動する。それが情緒

 

岡潔氏は「情緒と喜びを二元素とする新しい宇宙論を『春雨の曲』と題して書いていたらしいんだけど、書き直しに書き直しを重ねて、完成する前に亡くなってるんだね。

 

 

「情緒と喜びを二元素とする新しい宇宙論かぁ・・・

書きたいな。

あ、姉姉が今書いてるのはこれなのかな。

 

 

「情」は、「個(意識)」の枠外にあるもっと大きな個(意識)

岡潔氏のコトバなのか、岡氏ついて解説する森田真生氏のコトバなのか、はっきり覚えてないんだけど。この「情」は「生きる喜び」なんだ、って。だからね、「情」とつながる「情緒」のないところ、自他の分断された個にはその生きる喜び(情)は感じ取りにくい

かといって、自他の対立のないところには向上もなく理想もない、って。

 

これって、私が「生命力」ってよんでるやつだよね。

 

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自分と、自分の周囲の世界とのあいだにナニかが往来すること。循環すること。そこに〈生命力〉が発生する。

 

今回のプロジェクトで思い出して読み直したこの本↓で・・・

私にとっての世界、とか、世界にとっての私、っていう客観的な意味を求めるんじゃなくて、世界の中にある自分(逆だったかな?自分の中にある世界?)に、自分にとっての意味を見出す、みたいなことが書いてあって。

 

これまたプロジェクトでお届けした内容にもシンクロしてたんだけど。

 

岡氏(森田氏)のいう「生きる喜び」と同じような状況を指して「生きる実感」と表現してたな、って。

実感こそが、喜びなんだろうね。

 

「自分は切り離された生命(存在)じゃない」という「体感」。

それが薄れるから、苦しくなるんじゃなかろうか。

現代にはびこるさみしさってやつの正体は。

 

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これ、こないだ書いた「聖なるもの」の感覚にも通じるんだけど。抽象的で美しい聖母マリア的な感動じゃなくて、女神チャーナンダー的なもの。

 

一行はインドの寺院で祀られていた女神像を、見る。
清純でも優雅でもなく、美しい衣装もまとっていない。逆に醜く老い果て、コブラに噛まれサソリに刺され苦しみに喘ぎ、それに耐えながら、萎びた乳房で人間に乳を与えている女神チャーナンダー。

 

神聖さというと清潔で清らかで上品なものを想像してしまう(特に西洋的な思想)けど、生命って、もっと混沌としてるよね。

生命力そのもの、生命の源、「母なるもの」と言われる存在って、聖母マリアみたいに清らかで美しくどこまでも包容力のある存在として描かれるけど、それは一側面だよね。

 

聖母マリアに女神チャーナンダー、それはスパッと分別できる存在じゃないんだと思う。

 

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それにしても・・・

「情緒と喜びを二元素とする新しい宇宙論かぁ。

 

 

なにがどう繋がってくるのかわからないけど、

プロジェクトの中と外に染み出す伏線。

 

いや、物語の中にそれがあるのか、それの中に物語があるのか?

ここにも入れ子状の世界が絡み合ってるんだろうね。

 

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情の緒(いとぐち)にふれるトキ、まわるまわる糸車

真麻苧(まをそ)の糸を繰り返し

真麻苧(まをそ)の糸を繰り返し