鎮められるのは誰のタマシイか

メモ帳の中でほこりをかぶっていたコトバ

人生で何がやりたいのか、自分自身に聞くこともいいのですが、それよりもずっと重要なことは、あなたの人生があなたに何を要求しているか、人生があなたのために何を用意しているか、ということを聞くことです

 

それを見つけるためには、あなたの人生に沈黙の瞬間を許すことが大切です。
なぜならば、沈黙はわれわれが『思考』と呼んでいる頭の中の雑音を消すことができるからです。

 

習慣になっている思考や心配は、人生があなたに送っているメッセージを消してしまうからです。
メッセージは静かに、あなたに人生の目的を発見させようとしているのです。

エックハルト・トール

 

kotokotoba.hateblo.jp

 

コトバにできない世界

(2010.12.13の日記より)

文筆家、詩人でも 全部の全部 をコトバに切り取ることはできないんだから
私のコトバの限界はさらにさらに低いところに境界線が引かれる。

 

コトバで掬えなかった世界
(混沌、カオスとも、あるがままの素材の世界、とも表現されたそれ)
は掬われたコトバよりもむしろ ずーっと大部分 の側で
そのうちコトバの枠を外れてうまく受け取ることができた部分ってのは
きっと取るに足らない心の動きなのか、生理的に五感が成すひと仕事か
逆に魂の髄をふるわせる類のもの。

 

コトバに出来ない世界を、
掬いきれなかったけども感触だけはしっかり得ることができたそれを
その人なりの方法で表現しようとする人(「しようとする」ってのがミソ)
私はアーティストと呼びます。
絵画であったり、音楽であったり、身体表現(ダンスや演劇)、映画、それから言葉そのもの。

 

アーティストは、その言葉では掬いきれない世界に目(全身全霊)を向けなきゃいけない。
受け取れなきゃはじまらない。
だけど、大部分を受け止められないこと、それに掬えたものも感じ得たものも、
ささいなものでしかないことを知らなきゃいけない。
ささいなものだとわかった上で、それが世界のすべてなんだって実感しなきゃいけない。

 

私がこうしてコトバにできる事物だって、感じたことの本当に本当にぽちりとした芥子粒。
出来ないとわかっていて、挑戦するようなもの。
屋根の上に脚立を立てて月を取りに行くようなもの。
真剣になってみると・・・しんどい。だけど、楽しい

 

「語りえぬものは語りえぬまま、ただし私の語るもののなかには
自ずから語りえぬものも含まれている。」

 

鎮められるのは誰のタマシイか

『平家物語』 2020年5月 (NHK100分de名著)

『平家物語』 2020年5月 (NHK100分de名著)

  • 作者:安田 登
  • 発売日: 2020/04/25
  • メディア: ムック
 

 「鎮魂」は死者のタマシイのためだけじゃない。

生きている私たちのためにある。

 

普段は思い出さないような過去をそのままにしておくと、あるときその思い出が自分に押し寄せて自分の人生を駄目にすることがあるそうです。

 

私たちは、いまを生きるために過去の自分をどんどん切り捨てています。切って、捨てて、殺した自分がいる。

 

思い出さない過去ってのは、かなり大きいスケールも当てはまると思う。例えば今の人生を生きる前の人生、だとか。

 

能楽師の安田氏は、能を観ていると切った自分、捨てた自分がふっと出てきて、その衝撃が激しすぎると寝てしまう、と言っている。

 

眠りは「鎮魂」

私も、眠くて眠くてたまらない時がある。そういうときって、夢の中で言語化できないナニカがいろいろ整理されてるんだろうなって思う。

あと、眠っている間は「コトバ」から自由になって、必要なメッセージをとりにいってる。

 

2014.8.4の日記より

言葉は世界を分ける。

 

国境を引くとか文化の違いを生むとかそういう意味じゃなくて、もっと個人的な意味で。人間はだいたい、「いぬ」も「つくえ」も「わたし」も「あなた」も無い世界を1年以上過ごす。まさに大人が座禅や瞑想を通して一生懸命目指そうとしている世界に、生まれながらにしてどっぷりと浸かっている。その分別のない世界から私たちを引きずり上げるのは、「言葉」なんじゃないかと最近思うようになった。

 

分別がない世界の感覚を思い出せる大人はいない。いったん言葉を覚えてしまったら、二度と戻れない。普通は、それを忘れていることも忘れている。二度と戻れないんだから、子どもに急いで言葉や文字を刷り込んで大人にしてしまうより、味わえるうちにしっかりその世界を味あわせてあげたいもんだと思う。


分別がない世界には、何の縛りも無い。「わたし」と「あなた」どころか、時間もない。それってものすごく「自由」なんじゃないか。もちろんそこには「自由」も「不自由」もないんだけど、究極の自由ってやつはそこにしかないような気もする。「言葉」のおかげで「自由」を知り、それについて考えることができるようになったヒトってやつは、「言葉」がある限り究極の自由には成り得ない。そう思うと、なんとも言えない妙な気持ちになる。

 

「リアル=分別の世界」と「分別がない世界」の境目がどっかにあるんでないかと睨んでいる。そんでもって「夢」がその境目に触れる装置になるんじゃないかと。これはケンキューの必要がある。うむ。

 

 言葉でメッセージをもらうことも、たまにはあるけど・・・ほとんどはもんやりとした大きなイメージというか、ストーリーそのものというか、そんなの。

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 言語化した瞬間に、その感覚を「制限」してしまっている自覚はある。言葉は、光止波(ことば)・・・そこに留めておこうとするニンゲンの愛(かな)しい意図。

 

アマテラス 1 (花とゆめCOMICSスペシャル)

アマテラス 1 (花とゆめCOMICSスペシャル)

 

 

それにしても、「愛しい」を「かなしい」と読む日本語が、愛おしい。

 

物語は「鎮魂」

 人は、物語を自分の中に見出すことで精神を治癒する。心理療法で言う「治癒」や「癒し」は「鎮魂」のこと。

 人間は「つながり」を必要とする。つながりは命に係わる。ダイレクトに、寿命が変わると科学的に明らかにされている。

 

人が「生まれてきた理由」を知りたがるのは、自分と世界とのつながりの物語を求めているからじゃないかな。

 

 

 「つながり」は、時間を共有していなくてもいい。

故人とのつながりも、そう。

 

 

コトバがない世界には「つながり」なんて無かった。そもそも分別がないんだから、なにも分かれちゃいない。ワンネスってやつ。

言葉で「分かる」ようになったせいで、世界と別れてしまった。だから、愛(かな)しいのかな。

 

世の中は 夢かうつつか うつつとも
夢とも知らず ありてなければ

 

だから物語(コトバ)で、またつながりを求める。

 

故人とのつながり

お盆ですね。西洋風に言えば、ライオンズゲートが開く。

肉体のルーツを遥かに遥かに辿っていきつくのは、どこか?類人猿をもっと超えて、水中の生物を超えて、グーーーン、グーーーーンとさかのぼて、地球の源に。星やで。もっと辿れば宇宙そのものか。

 

胎児は地球の生命45億年の歴史をおさらいして生まれてくる。DNAにちゃんと刻まれている。

 

私たちは星から生まれて、星に還る。

ファンタジーでもなんでもなく、リアルなハナシ。

 

その記憶が、身体(DNAにも精神にも)刻まれているから

思い出せる人は宇宙規模のパワー(叡智)を持っているように見えるけど

同じように人間で生まれたんだから、全員「記憶」はあるはずなんだよね。

 

神の声とかシャーマンのお告げと表現される宇宙規模のパワー(叡智)も

結局は全部「内部」にある、らしい。

 (去年の8月のブログ記事

 

 

 やっぱりお盆になると、こんなふうに「見えない世界」に思いはせちゃうんですな。ゲートが開いてるから、なんらかの引力が働いてるんだと思う。

 

もともと記憶とか思い出ってやつは砂の粒の集まりみたいなもんで、
特定の時と場所と思いが固まって一個のカタチに残ってるだけ。
(いつのまにか出来てる はなくそみたいに。)
それがちょっとずつ、風化して砂塵に戻って行ったとしても
私は何も失くしてないわけで。

「もとあった場所に戻った」だけなんだってこと。
私個人が作った思い出・記憶が砂つぶに融けて行っても
その思い出・記憶はその場に残る。

私が忘れてしまっても、土(地球?)が覚えててくれる。

そうやって作って壊して、人間の記憶の世界は耕されてるのかもしれない。
悲しいことも、嬉しいことも、恐ろしいことも、楽しいことも。

 (2011.10.24の日記より。不思議な夢のハナシ

 

 

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もうひとり、ばあちゃん。

これはまだばあちゃんが生きてた時の日記。こういう私自身のわだかまり、後悔、そういう気持ちもまた、物語を通して「鎮魂」される対象なんだと思う。

 

 

神社の物語=故人とのつながり=鎮魂

たとえ言語化できていなくても、足を運んで「沈黙」することで、そこにつながりが生まれる

 

多くの神社は、「鎮魂」のために建てられているんじゃないかって私個人は思ってる。

平家物語を語り、聴くことで故人は思い返されて、物語を与えられることで鎮められる。

そして生きているワレワレも、癒される。

生きているワレワレの「切って捨てた過去の自分」も。

 

そういう意味では、歴史の「真実」は重要視されない。

神様の名前がなんなのか、とかね。

 

「切って捨てた過去の自分」が45億年のスケールを孕むのなら、神社での「沈黙」は地球を、宇宙を鎮魂することになりゃしないか。

 

お盆だから、神社にいかなくてもライオンズゲート(参道から神社に入る両脇にいる、阿吽の獅子、狛犬!)は開いてる。

 

日々の暮らしの中に、一瞬でもいいから沈黙を。この時期は、どうか。


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焦らなくても、大丈夫なのだ。

私は、45億年の「水」を運んで、生きている。