人は潜在的に恐怖を感じながら生きている。
潜在的に、だから普段表に出てるわけじゃなくて。
その見ないようにしている最深部、忘れようとしている層の「恐怖」が引き出される感覚、顕になってしまうという感覚が「怖れ」なんじゃないか?
外部からの脅威そのものがコワイ、というよりは。
ああ、これって「月」のハナシだなぁと名越せんせのハナシを聞いてて思ったよ。
いちばん内部の層。その上にまた何層も重ねて人は成長して(時間を重ねて)いく。
最も大きな恐怖は、当たり前が揺らぐこと。
「月」は占星術でコンフォートゾーン、不安感を指す。当たり前の中で安心感をキープする恒常性、生物的本能、生き延びるための恐怖心。
ここで例に挙げられた「血の轍」は母子の物語なんだけど、月は母子の象徴でもある。母親像と、幼少期の記憶。頭で覚えているほうの記憶じゃなくて、身体で覚えているほうの記憶。
水に溶けた情報。体液の一部となった情報。
身体感覚も月の一部だと個人的に考えてて。漢字でも月ヘンは肉体の部位だし、月の象意である「感情」は肉体に付随する感情だと思うんだ。
※記憶も、感情も、頭経由のものと身体経由のものとで別種だと思う。呼び分けられてないからややこしいけど。
そのあたり、こないだの【星に学ぶWS】でも触れたハナシ。
ほら今、太陽のシーズン到来でしょ。
これまで欠陥だとか、傷だとか、苦手意識だとか、そういう「ひっこんでな!」といわれてきたThis is meと、どう向き合うか。
月は太陽を語るうえで欠かせない。
奥底の恐怖心(月)をもTHIS IS MEと受け入れたとき、ものすごいパワフルな太陽の光が自分を照らすんだ。私を照らすのは、私。私しかいない。
この「私しかいない」って気付きは、孤独な諦めとはちょっとニュアンスが違う。私はここにいるんだ、ずっといたんだ、これからもいるんだ、って「明らむ」の。
太陽は巡る。私たちは太陽から生命力を受け取っている。
巡る太陽のリズムを「自覚」すること、自分の中にある太陽(生命力)にリンクさせること、それが暦の術なんじゃないか?ってのが今取り組んでいるプロジェクトのけんきゅー。
地球に聴こえてくる太陽系の音色を、ぶつ切りにして解読(開運ポイント、社会情勢の予測)するんじゃなくて連続する流れを感じてリズムを調律することがダイジなんじゃないか。
音楽は「時間」上にある。一瞬、一瞬の音のインパクトじゃなくて、連続して「聴こえる」から音楽になる。
無意識のうちに、今まで聞いた音とこれから聴こえてくるであろう音を繋げることができるから、私たちは音楽を音楽として楽しめる。もし時間感覚がなかったら、ただ「今」この瞬間に届く音のインパクトにしかならない。
それはそれで影響力はあるけど、せっかくメロディやストーリーがあるんだから、それを味わいたい。私は。
太陽系が描く土星(時間)で区切られた世界。そして時間を超えた影響力も、もちろんある。土星以遠のトランスサタニアン。全部ひっくるめて、太陽系の音楽。
やっぱり暦は「大きなリズムを感じること」「グラデーションの変化を感じとること」「自分に結び付けること」のためにあるんだな、と実感。
トキに振り回されることもなく、おびえることもなく、流れるリズムを感じ取ること。全体像と部分を結びつけること。音楽を聴くことに似てるね。瞬間、瞬間だけミュート解除するんじゃなくて、流れる幾筋もの歌のラインを楽しもう。
『暦の術プロジェクト』は、クセの強いその他いろいろなプロジェクトに比べて更にマニアック。知識のマニアックさじゃなくて、ここにかける想いがマニアック(笑)
これは「善き未来」のための、個人的な挑戦。世界を信頼して、宇宙のリズムに身を委ねるトレーニング。課題は山盛り。
プロジェクトにかける想いと裏腹に、めちゃくちゃウケがよくない今回の【暦の術プロジェクト】(笑)これは私の表現力の問題もあるな(´・ω・`)自分の中では「これはすげぇ!!」ってなってるんだけど(笑)マニアックすぎるか。
とはいえ、誰かの役に立つためでもないし、自分のアイディアを認めてもらいたいから書いているわけでもないってことを忘れずに。これまた、THIS IS MEのためのトレーニングなのかもしれない。
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