太陽は目的意識なんかじゃない。それにとどまらぬ生命力じゃ。

太陽は「目的意識」と翻訳されるけども、獅子座の支配星であることをかんがみるに、それは全く逆なんじゃないか!!!と、國分功一郎せんせの『目的への抵抗』を読んでてハッとした。

 

 

タイトルがまじめくさいけど、めちゃくちゃ面白かった。哲学って、ほんとスリリング!!!

 

 

ただ生存している、死んでいるわけじゃないという意味で「生きる」のと、自分の人生を「生きる」というのは、別の種類の「生きる」という行為。

 

死に対する生、生命力を動かすチカラという側面の「生きる」は牡羊座

それに対して獅子座の「生きる」は、いのちを満喫する姿。

 

趣味や楽しみ、夢中になるエネルギー。

そのエネルギーが注がれるのは、「生存という目的のために最低限必要とされるもの」以外のもの。

 

つまり、目的ありきの活動なんじゃなくて、その活動自体が目的となる活動。

楽しむための、楽しみ。

 

「遊び」の定義、それ自体を目的とする活動。獅子座は遊ぶ!遊びには、その先にある目的(必要性)は無い。

必要だからするんじゃなくて、やりたいからする活動、そこに向けるエネルギーが、獅子座の支配星、太陽のチカラ。

 

てことはね、太陽は目的意識じゃないんだよ。

むしろ、目的からはみ出る部分。

 

遊びのための遊び。食事のための食事。学びのための学び。

なくても「生存する」という意味では生きていける、目的からはみ出た、いわゆる「贅沢」な部分。贅沢ってのは、必要最低限をはみでるってこと。そのはみでた部分が、ワタシを豊かにして、充実感を与えてくれる。

 

太陽のエネルギーは、ワタシという個人を豊かに、楽しく、夢中にさせてくれる。喜びをもたらしてくれる。

 

人が贅沢をするのは、それがよろこびをもたらすからです。美味しい食事を食べるのは、それが美味しいからです。

贅沢は、何らかの目的のためになされるのではありません。

ですから、「人間らしい生活をするために、私は贅沢をしなければならない」と考え、そのような目的を立てて贅沢をしようとしたら、それは贅沢ではなくなってしまうでしょう。

贅沢はそもそも目的からはみ出るものであり、それが贅沢の定義に他ならないからです。

 

目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

 

チェスのためにチェスをすることも、芸術のための芸術も、そのひとつのことに没頭させてくれる活動

 

我を忘れて、没頭する。夢中になる。

その時ひとは、その人らしさをいちばん発揮する。

 

5ハウスの楽しみは「我を忘れて」没頭することで、「我の生命力」がグンと高まることなんだよね。

 

『作品が素晴らしいほど、われわれはそこに没入し、「我を忘れる」体験をし、再び我にかえるときにその体験を吸収してゆく』

 

臨床心理学者の河合先生は、「我を忘れる」体験が自分を成長させる肥やしになる、と言う。

 

ただし、「我を忘れる」ことは、怖いこと。自分を投げ出しても「大丈夫よ」と抱きとめてもらう経験を持っていない人は、「我を忘れる」体験を自分のものにすることができない。

 

この抱きとめてもらう経験(安心感)ってのは、月が管轄してるの。この満月図、月のコンディションでピックアップする世界が全く違うものになりそうだ。

 

starship.hateblo.jp

 

目的意識はむしろ山羊座土星の管轄だ。進むべき方向、目指すべき山頂を提示する。

 

太陽は「目的意識」じゃない。

目的からはみ出る、溢れ出すジブン自身の生命力、ただそれだけなんだ。

 

その裏側には自分を投げ出せるだけの安心感、月の存在がある。

獅子座のひとつ前のサイン、月を支配星に持つ蟹座は、自分を守ってきてくれた甲羅。

 

その蟹の甲羅からはみ出た「真似してもしきれないズレ」、平均値や理想値、統計からじゃ見えてこない個別の「差異」に注目するのが、獅子座のサイン。

 

starship.hateblo.jp

 

そんでもって元外殻、これまで自分を守ってきてくれた甲羅は、もりもり創造されゆく造形の内部にそのうち見えなくなって、自分の内側、中心を支える背骨になってくれる。

 

なんかゴリゴリ🦁に☀ネタで書きたくなったのは、この本がめちゃんこ面白かったからってだけじゃなく、今日届いたFESのフラワーエッセンス『サンフラワー』🌻の影響なのかも🤭💖

 

あい変わらず、占星術のセオリーをバリバリ破っちゃってますな!!(笑)

占星術の教科書ぜんぶ書き換えた、占いでもなんでもなく、なんの役にも立たない(目的を持たない)占星術の本を書きたいな!!!

 

しかし、「何の役にも立たない」からこそ、そこには何かがあると思う人間もいるのである。かれにとって、文芸とは何かの役に立ってはいけないのだ。損得勘定とは最も遠いところに、文芸の意味はあるはずであり、たとえ何か、別の崇高な目的を達成するための手段であってもいけない。 そうした、それ自体が目的であるような文章に存在の場を与えよ。

 

 

ただただ単純に、生きていることと、ワタシでいることと、世界のことを、楽しむだけの本。啓蒙でも批判でもなく、誰かに寄り添いたいわけでも影響を与えたいわけでもなく。

 

🌻🌻🌻