クリエイティビティは、自由だから発揮できるんじゃなく、ある程度の「制限(不自由さ)」によってブースト❤🔥されるもの!
「あそび」が創造的な活動だと言われるのは、「あそび」はある種のルールや使えるアイテムや環境といった、制限を設定したうえでの自由を模索する活動だから。
俳句の中に「おおお、そうきたか!!」って発想が盛り込まれるのは、かなり強い制限(文字数、季語、上級者になると掛詞に枕詞…)がかかってるから。
なにもかも、「意外性」「ルール度外視」だけが創造的ってわけじゃないんだよね。むしろ、創造的なふるまいってやつ、「いかにその条件、制限の中で、オモシロさを生み出していくか」ってことに注目する。
占星術で「創造的なふるまい」について語るのは獅子座。
獅子座の前のサインは蟹座。模倣と同化によってもたらされる土台、基盤のサイン。
その蟹の甲羅からはみ出た「真似してもしきれないズレ」、平均値や理想値、統計からじゃ見えてこない個別の「差異」に注目するのが、獅子座のサイン。
獅子座の支配星は太陽。
占星術で最も重要視される、太陽系の中心。それは、個人個人が内に秘める宇宙の中心!その人の、センターポイント。※ただし私はそこに「中心となるナニかが在る」とは考えていなくって、そこはドーナツみたいに空洞になってるって説をたててるんだけど
そういえば占星術は用いる星図(ホロスコープ)の図示の仕方ゆえに「天動説をベースにした思想」なんて言われるけど、全くそんなことはなくて。むしろゴリゴリに太陽中心思想なんだよね、言ってることは。
さてさてクリエイティビティ、創造性は「ワタシタチという基準♋からはみ出たワタシ自身という誤差♌」から生まれるってハナシに戻る。それは必ずしも現状打破だとか破壊とか、クーデターってカタチをとらない。その性質も♌の裏側♒にはあるんだけど、あくまでも純粋に創造性を指すならば、それは「制限の中から見出す自由」「コントロール不可の世界だからこそ抱ける希望」なの。
スピノザだな〜!
願ってもどうにもならないことが、世界には溢れている。意志や祈りや願いでは、世界は変えられない。そのことは、絶望なのではなく、希望なのである。
ああ、相変わらずセオリーの逆をゆくワタシの占星術論。。。
「獅子座それすなわち意志の力!運命は意志によって切り開くもの!」って考え方が現代の占星術のメインストリームなんだけどね。
「わたしはわたしの運命の主人」
「わが魂の船長はわたしである」
ウィリアム・ヘンリーのこの言葉を挙げて
これほど傲慢で、とんちんかんなことはない、とハクスリーは言う。
最近の占い提供者が好きなセリフなんだけどな(笑)
なんならわたしもこのブログを立ち上げた当初、最初の記事で占星術を例えるときにそう書いていたかもしれない。
「わたし」に運命を支配することはできない。
だってわたしは「もっとも口うるさい船客のひとり」にすぎないのだから。船長の食卓に招待されるほどの身分でもないし、魂の船がどんな形で、どんなふうに動き、どこへ向かっているのか知らされてもいない。
(これは占星術、占いファンのみんなから反論が来そうだけど、今のわたしはこの言い分がとってもしっくりくる)
「支配下における」「コントロールできる」って前提で世界に向き合うと、できるはずなのに(できるべきなのに)できない、ってことにでくわす。その感覚が、悩みや苦しみの根源だからね。
運命は、コントロール外の大きな流れ、って捉え方が好きだなぁ。いのちって、いのちを運ぶ世界って、ワタシひとりでどうこうできるわけじゃない、どうしようもない存在。私はそれを悲観主義じゃなく、むしろ楽観主義の極みに感じる。
ちっちゃい頭で大きな流れに思い悩むより、その流れにどうノル?いや、敢えてソル?ノルかソルか、いかに運命といのちの関係性を楽しむか。そっちに振り切ってるわけで。
私の占星術愛は、与えられたルールの中であそぶ側面よりも、その裏にある破戒僧な側面が強いのかもしれない。。。(笑)♒⚡️
スピノザの思想はまだここから↓スタートしようってレベル(膨大な積ん読リストの中の一冊)なんだけど、
獅子座シーズンに読んじゃおうかね!
制限があるからこそ生まれる自由、可能性!
その制限は、あらかじめ設定された環境、生まれ、種を播かれた場所♋でもあるし、自分で設定したあそび方(ルール)♌でもある。
播かれた場所、蟹座♋の裏側にあるのが山羊座♑。それは「社会からの期待」という制約でもある。そもそも制約ってキーワードを担当するのが山羊座支配星の土星だもんね。
社会からの期待ってやつは、心理学的な意味でいう「父性」。
失敗も含めてすべてをあるがままに受け入れる、肯定するのが「母性」なのに対して、「父性」はダメ出しとかシツケとか、そういう否定的なイメージ(厳しさ)を持たれがちなのかな??って印象。
土星がこわがられるのは、そういう「現実見ろよ」って厳しさがいかにこの界隈で嫌がられている概念なのかってことを表してるんじゃないかな・・・(笑)
確かに母性を「受容」ととるなら、その対になる父性は「否定」ってコトバがあてられる。肯定・拡大の木星に対して、制限・縮小の土星。
でもね、私は土星的な「否定」「制限」「厳しさ」って、愛のムチでもなんでもなく、ただ肯定のポイントが母性的な肯定のポイントと違うってだけだと思うんだよねぇ。
「オマエはまだまだこんなもんじゃねぇことを、オレは知っているんだぞ」って、可能性の肯定。木星的な可能性の肯定は「いいね、いいね、まだまだイケルね!!」ってニュアンスでこれとは違うんだけど、伝わるかなぁ。
例えば失敗とか、欠点とか、なにかうまくいかない現実があったとして。
それを「そんなあなたもひっくるめて、それでいいのよ、OK牧場よ」と巨大なおっぱいで包み込むのが母性であるなら、父性はその失敗や欠点の「責任」を与えてくれる。
「オマエはその現実の中に自分の足で立って、自分の目を向けて、自分の力でそれに応じていくチカラがある」と信じてくれるのが父性だから。
責任(Responsibilityレスポンシビリティ)ってのは、応答する(Responseレスポンス)能力が在る(Abilityアビリティ)ことを受け入れる行為だから。
それは、本人が現実を自分で生きるチカラを肯定している。本人の可能性を肯定している。確かに現状そのものをヨキ状態としてヨシヨシしてくれないから、厳しさに感じるかもしれないけども。
本人のチカラを肯定して、信じて、期待を与えてくれるってのは、ムチでもなんでもなく、愛そのものじゃん。母性も愛なら、父性も愛。
例え愛ゆえのふるまい(受容OR期待)であっても、バランスを崩せば危険なのはどちらも一緒。極端な母性は成長を阻んで絞め殺してしまうし、極端な父性は伸びようとする芽を引っ張ってちぎりとってしまう。
そんな母性と父性、どちらか片方が「愛」じゃないんだ、ってことに気づかせてくれたのが、とと子が思慕するゆうあ姉様のフラワーエッセンスWS🌻
今月のホストは太陽の花、ひまわり🌻!!
フラワーエッセンスでは「父性」というキーワードに紐づけられるんだけど、「具体的、個人的な親子関係としての父性」かというと、ちょっと違うらしいんだ。もっと抽象的な、概念としての父性(例えばそれは自尊心の源、社会に対する表現の在り方)を担当していそうなお花。
キク科の植物って聞いて、なるほどそうかもなって思った。仏花代表のキク科ですもの、精神性とか抽象的世界にエネルギーが向いていそうだよね。
ひまわりが表現する「自尊心(OR自己卑下)」ってキーワードは、父性的な意味で捉えたほうが狙いを定めやすい。それは現実を受け入れたうえでの、可能性の肯定って意味での自尊心。オレはスゴイ、オレはエライ、オレはデキル子、って自尊心のイメージじゃなくてね。
それは「現実」(その多くは変えようのない現実だったり、コントロール不可な現実、厳しいニュアンスを含む現実)という制約のなかで、いかに自分は自分の可能性を肯定するか、ってことなんじゃないかな。
ほい、冒頭のハナシに戻ってきたぞ。
それが獅子座のクリエイティビティ。創造力の源。
創造力は生きるチカラ。
生命力って言ってもいい。
肉体的生命力っていうよりも、タマシイの生命力に働きかけるイメージ。
※姉姉ポイント!ひまわりはひとつの大輪に見えて、実はたくさんのお花が集まってできている🌻花がたくさん集まる植物は、タマシイに深く関連するらしい!!
獅子座の支配星、太陽はワタシという宇宙の中心。それは背骨。
自分自身が現実世界に立つための、プライドという背骨。
自分の背骨に「プライド」が入っているひとは、容易に感謝できる。
そうでないひとは、自分の「感謝」が「卑屈」に結びつくのを怖れるあまり、それができない。
「感謝」は自分自身にプライドがなければ、何食わぬ顔をして卑屈の側に行きがちな質(たち)なので。
背骨にないプライドという成分は、鎧のように外骨格(!)に形成され、外から見えやすく―それは外気に触れて自慢や傲慢に変化しやすい―ようやく体をなし「立って」いられる状況……。
それは国そのものにも言えますね。背骨にプライドが入っていたら、いちいち誇示してみせなくても立派に「立って」行けるはず。
外側にがちがちに固めた外骨格のプライドじゃなく、背骨の中(隙間)を満たす髄液のようなプライドを。
蟹座から獅子座へ、土台に柱をおっ立てる。そのために蟹座の甲羅を食い破る必要はまったくなく!甲羅からはみ出る生命力(基準値にピッタリ合わせられないその人らしさ)の造形を楽しめばいいだけなわけであって。
そんでもって元外殻、これまで自分を守ってきてくれた甲羅は、もりもり創造されゆく造形の内部にそのうち見えなくなって、自分の内側、中心を支える背骨になってくれる。
制限、制約は創造性を縮めやしない。
母性的な締めつけや、父性的なダメ出しが、創造力(生きるチカラ)を弱めるわけじゃない。
母なる土台、集団で共有する自己イメージも、父なる社会、掲げられる理想像も、そのどちらも自分自身ではない。そこにワタシはいない。でもそのワタシ不在の空洞、中心にある筒が、ワタシを支える背骨になってくれている。
母なる制限、父なる制限を認め、自分の中心が空洞だと気づくこと。その空洞が自分を支え、その制限が創造性を生むんだと発見すること。
生きるチカラを発揮する。生命力を燃やす。頼もしい骨♑と、満たされた髄液♋!そこから生まれたワタシという個別の存在に抱くヨロコビと誇り!!♌✨
これぞ自尊心。
どんな現実であろうと、そこに降り立って「光にまなざしを向ける🌻」と決める意志。それが太陽。太陽の記号◎はまなざしを向ける焦点。
ニーチェの運命愛だな💖
Amor Feti(運命愛)
「運命」を愛すること、いのちの旅路を自らのうちに受け入れること、そして過去を、現在を、まだ見ぬ未来を慈しむこと。
いのちの旅路を、現実世界を、自らのうちに受け入れること!
おひさま、サンサン!ひまわり、サンサン!
我らいのちの旅路をゆく裸の赤子💖
そうそう、ワンドのクイーンも🌻を手に持ってるよ。
クイーンの玉座も、よく見たら獅子だね!
ひまわりは太陽の生命力。光のチカラの象徴。それは現実を(たとえそれが厳しい現実でも)照らし出しす。現実を見よ、生きよ、と責任(世界に応じるチカラ)を信じて託す「父性」。
女性性(母性)的なエネルギーの代表格、クイーンがそれを握っているのがすごく面白いよね!!
ワンド、棒(植物)は生命力、陽のエネルギー(男性性)の記号なんだけど、それを手にした女性性の発揮のされ方が、このワンドのクイーン様。
足元にいる黒猫は、闇夜に溶け込む目🐈⬛暗闇に惑わされることも怯むこともなく、むしろその世界を闊歩できるしなやかな強さ。影を扱う女性性が、光の世界に目を向けるその姿は、まさにひまわり!
姉姉に教えてもらったの。
ひまわりの茎(背骨!)は、日の当たらない影の部分がグングン成長する。だから光の方向に顔を向ける動きが生まれるんだって。
「だからこその」ってのが私的オモシロポイントだったなぁ。
影があるからこそ、光に向き合うチカラが生まれる。
制限があるからこその、創造性にもつながってくる。
対になると思われていたものは、打ち消し合うものでも否定し合うものでも、相容れない別々の性質なわけでもなく、その両方があってはじめて成しうる大きなテーマ(ひとつの世界)ってもんがあるんだ。
その両端を一緒に握ってくれているものが、陰と陽であり、光と陰であり、男と女なんだろうね。同じゴール(世界)をまわすために、お互い欠けてはならないパートナー。
それから、「単純化」したら見えないもののなかにこそ、本質(エッセンス)はあるって感覚。
エッセンスってコトバだけ聞くと、不要な部分を削ぎ落とした究極シンプルな要素、ってイメージだけど…
むしろ逆なんじゃないか。
いや、複雑な説明やコトバは不要って意味ではシンプルなんだけどね。コレはこういう意味です、コレにはこういう効果がありますってなふうに、薬効や化学成分のように切り分けられない(言い切れない)曖昧で、入り混じった世界。そこには母性と言われるものも父性と言われるものもある。陰と陽、対極に思えるエネルギーもある。
フラワーエッセンス的な眼差しで言えば、植物が対極の要素を同時に表現しているように。
その曖昧で入り混じっていて、普遍的でかつ個性的なナニか…すべての中に含まれている最小のものかつすべてをその内側に含める最大のものを、無理くりコトバに変換するなら……
その本質(エッセンス)はきっと
「愛」と呼ばれるものなんだろうね。