あれからすでに太陽がひとめぐりしていたなんて・・・
気分がいいから星図を眺めてる。
太陽のムーヴメントを基準に、季節の移り変わり、エネルギーの気圧配置の変化みたいなものを定点観測するって視点でホロスコープを見ると・・・
去年と今年で、すごく気になる変化がある。
昨年の暦の術プロジェクトを通して感じたのは、トキの流れ(性質?)がものすごく大きく、大蛇がゆっくり頭の向きをズズズとずらすように、方向転換しているさなかって感じだった。
今年の春分(太陽牡羊座入り)からその変化が、トキの波打つカタチにも現れた。
地と図がひっくりかえった。
太陽がサインをまたぐエネルギーの節目、節気。
節気毎に、
その太陽のエネルギーを地球に受胎する新月→うつしきる満月
って流れだったわけだけど・・・
リニューアル感バキバキの春分で、いちど足をパタタッとステップ踏み直したように、新月→満月→また新月・・・で、牡牛座からは満月→新月ってリズムに切り替わっている。
これ、めちゃくちゃ大きい変化だと思うんだけど。
頭がしっぽになって、しっぽが頭になってる。
月の象意は変わらないけど、解釈は変わるんじゃないかなーーーー
新月=はじまり
満月=完成
っていう教科書セオリーも書き換えたほうが良いと思うんだけど。
節気、太陽のサインの移動はテーマソングの切り替えみたいなもんで。
BGMが違うと見ているシーンが全く違う雰囲気になるように。
新しいシーン(BGM)が鳴り始めて、舞台の幕があける。
スススーッてカーテンが開いていって、照明もだんだん明るくなって、開ききったところが最初に迎える満月。
そこから徐々にまたシーン切り替えのためにBGMの余韻を聞きながら舞台は暗転していって…
舞台セットが置き換わっている様子のうしろでBGMも切り替わって、まただんだん照明の中に次のシーンが見えてくる。
今は蟹座のテーマソングがフェードアウトしつつ、舞台は次の獅子座のストーリーに配置換えしてるとこだね。
あと数日したらBGMは完全に獅子座のテーマソングに切り替わって舞台も獅子座の章が始まっている。8/2に出すもん出し切って、また徐々に配置換えが始まる。
太陽のうつりかわり、節気がBGMで、
新月満月は地球を舞台にしたステージ設営の様子。
そのステージ上の自分の立ち位置が、出生ホロスコープと新月満月の位置を重ねてみたハウス。
その立ち位置からどう振る舞うか?は役者である自分次第。
まわりにいるその他大勢の役者と、ぶっつけ本番の即興劇場なわけだから、現実がどう動くか?は、即興の結果なのです。
でも、立ち位置にあわせて振る舞えたほうがきっと見応えのあるシーンがつくれるよね。
とんちんかんな動きをすれば大根役者に見えてしまうかもしれない。それはそれで面白い。
自分という役者の魅力と資質を存分に発揮できる演技をすること。
自分を生きるってこと。
生命力を燃やすってこと。
そのために照明やカメラの位置、舞台装置を把握しておこうってのが『暦の術』としてのホロスコープ活用法!
私は、舞台の上にいる。
照明の下に立っている主人公だって自覚をくれる暦の術。
この舞台をステージの外側から見ている観客ってのは、誰でしょうかね。
文字通り上の次元の存在(視点の外側にある視点って意味)で、神さまが見てるって表現でもいいのかも。
それはたったひとりの観客といいますか、たったひとつの世界そのものといいますか。
私という演者からすれば、私を見せる相手は同じく舞台上で出会う他の演者じゃあないんですよ。
あくまでも、観客は舞台の外にいるわけで。
この舞台(地球)にあがったキッカケは人それぞれのようだけども…
私はね、そのたったひとりの観客を、めちゃくちゃ楽しませてやろうじゃないの、って、思うのね。
いつか舞台を降りるとき
「うわー、見応えあったわぁぁ。おもしろかった!!!」
「いやぁ、あのシーンはね…」
なんてアフタートークで盛り上がりたい。
おおお、はからずも獅子座的なエネルギーに満ちたハナシに漂着!
5ハウスの楽しみは「我を忘れて」没頭することで、「我の生命力」がグンと高まることなんだよね。
『作品が素晴らしいほど、われわれはそこに没入し、「我を忘れる」体験をし、再び我にかえるときにその体験を吸収してゆく』
臨床心理学者の河合先生は、「我を忘れる」体験が自分を成長させる肥やしになる、と言う。
ただし、「我を忘れる」ことは、怖いこと。自分を投げ出しても「大丈夫よ」と抱きとめてもらう経験を持っていない人は、「我を忘れる」体験を自分のものにすることができない。
この抱きとめてもらう経験(安心感)ってのは、月が管轄してるの。
過去記事をほりほりしててみつけた一節
現実ってのは「つじつまのあった作り話(演劇)」
これ、最近読んだ本のハナシにも繋がってくるね!