ただいま星の国!また会う日までジャパン!
夏休み、台風とともに日本に上陸し、台風を背に列島横断。
6ヶ月ベビーの初めての風邪が、日本に向かう深夜便の飛行機の中で発症したり。台風の影響をモロに受けてスケジュール大混乱だったり。どうにかこうにか、結果的にスーパーラッキー!と思える旅程で、無事シンガポールに帰ってきました。ふぃー
ずいぶんご無沙汰しちゃったけど、お墓参りもできたよ。
生物(物理)的にいえば、記憶ってのは細胞の中に保存されてるわけじゃないのね。細胞と細胞の間に記憶はある。記憶は、細胞と細胞の関係性、情報の回路。
細胞は常に分解されて再構築、交代しているから、数年前の私と今の私は同じに見えて全く違うモノ。もし記憶が細胞の中に保存されているのなら、その情報はキープされることはないはず。
じゃあ記憶はどこにあるのか?
細胞がすっかり入れ替わってしまっても、細胞と細胞のつながり(回路)が同じルートで維持されていれば、そこに電気が走って発火すれば、記憶は蘇る。記憶の実態は、モノじゃなくて関係性。回路を走る光。
思い出せなくなるってのは、回路に光が走らなくなること。
鮮やかな記憶ってのは、何度も何度も光を走らせた、太い回路。
「テセウスの船」も思い出した。
テセウスの船(テセウスのふね)はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす。
テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウス(英語版)[1] の時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。
記憶は実態のあるブツじゃなくて関係性の中に浮かび上がる光。
エレメントで言えば、土を媒体にそれをつなぐ風、そこに光を生む火、そしてそれを感じとる水・・・かな?いや、海に浮かぶ小島と、風を帆に送り届けられる松明の灯り。その灯りを繋いで浮かび上がる大文字が、記憶。
記憶は死に対する部分的な勝利だ。
リメンバー・ミーだなぁ。
記憶は、過去を支え、アイデンティティを支え、未来に希望を抱かせてくれる光。
ろくな記憶がないって人には、酷なハナシなんじゃないかって?そうかもしれない。でも、記憶には実態がないってことは、逆に考えれば回路を変えれば記憶も変わるってことでもある。
記憶は月、月を光らせているのは太陽、それは私。
とはいえ、ろくでもない部分も含め運命を愛したいものよ。
全肯定、すさまじいパワーを生む力。
名越センセは「項目ごとにするもんじゃなくて、感覚」と言っているように、それはDO(全肯定する)じゃなくてBEING(全肯定である、全肯定の感覚でいる)。
それぞれの出来事をピックアップして全部に「イイネ」することが全肯定なんじゃない、と私は思うよ。最終的には名越センセみたいに「スバラシイ」と表現することになるんだろうけど。それは結果的にそうなるんであって、嫌な気持ちをなかったことにして褒めろ、ポジティブ変換しろってことじゃない。
寂しいときは、寂しがるがいい。
闇を切り離そうと拒絶するんじゃなく、光と等しく愛すること。
愛するってのは「めっちゃ好きになる」って意味じゃなくて、批判も解釈も挟まずにまっすぐ受け止めるってことね。
そんでもってその愛するという行為そのものが、祈りなわけ。
全託の祈り。本来のピュアな祈りの姿。
祈りは世界を全肯定する姿勢。
闇も光も含めた、世界そのものを愛する。寂しさは寂しさとして、悲しみも悲しみとして、怒りも、欲も、憎しみも、そのままの姿を心にうつしとる。
全部ひっくるめて、ただ素直にまっすぐに、受け止める。
全託の祈り(全肯定)が爆発的に人間の能力を引き出す、ってハナシは田坂センセのアレにも通じる。
ベビーをおんぶして一通り午前の家事を済ませ、おんぶしたまま💩もどうにかフィニッシュして、ネンネしてくれてるうちにひとつ記事が更新できたぜ!
ズボン履ききれずに下半身はデカパンツ姿で、ゆらゆら背中をゆらしながら、立ちっぱで。
シュールだな!!!