昨日読んだ本!
- 自分のことをわかってもらおうとして苦しんでいる人
- 他人のことをわかろうとして苦しんでいる人
- 他人を説得したいと思って苦しんでいる人
- 他人を思い通りに動かしたいと思って苦しんでいる人
- 他人にもっと好かれたいと思って苦しんでいる人
- 会話でもっと学びを得たいと思って苦しんでいる人
- 会話でもっと笑いたいと思って苦しんでいる人
こんな人に・・・って書いてあるけど、会話ハウツーではなく、おっさん二人が独特のノリで会話している(対話って感じじゃなく、淡々とだべってる・笑)感じ。
私も誰かに会って、「他愛もない」お喋りをしたいなぁって思ったよ。
参加者のだれも「ツッコミ」というマウンティングをせず、 「その発想、おもしろいね」などと審査員にもならず、全員がプレー ヤーとしてスローインされたボールをドリブルしてパスを出す。そう ただパスを回す遊び、それが最上の会話であり、「連歌」にも通 じる遊びの本質なのである。
そういう会話の楽しみ方って、女の人上手だよね。誰かが仕切ったりしなくても、結論決めたり〆たりしなくても、ただただ言葉のやりとりを楽しむ会話。
会話にオチはいらない。理想の会話とは、ボケにボケが重なって、 もはや何について語っているかわからなくなる状態であり、会話の参加者全員が「今、なんの話をしてたんだっけ?」という状態になることである。それこそ人間が退屈で平凡な日常や、うっとうしい 自己というものから解放されるひとときなのである
ボケにボケで応酬する(笑)
時々LINEでも、占星術を共通語にそんなやりとりが発生する(笑)
それから毒舌がたまらない子育てエッセイ。
笑った笑った!
「『ママの笑顔』が”家族の幸福度”に影響」「ママの笑顔は子どもの幸せ」「ママがいつも笑顔でいられるために」。育児書や子育てサイトに溢れる常套句だが、この手の文字列を目にするたびに「ママに背負わせすぎだろ」「それができりゃあ苦労しねえんだわ」とブチ切れそうになる。
ほんまにね、現場ならではのツッコミのキレよ(笑)育児にまつわるモヤッと、これまでとは全く違う視点に気付く、街場の親子あるある。
「親は子に無償の愛を注ぐ」といわれるが、これは大嘘である。どんな理不尽も受け止めて、慈しみ、見返りを求めず、大きな愛で子供を優しく包み込むのが親だとすれば、私は親ではないことになる。だいたい、子供を産んだからといって、ただの人間が突然聖人になれるはずがないのだ。
「親なんだからきっと褒めてくれるはず」「親なんだから無条件に愛してくれるはず」と。その思いに応えてくれない母を憎んでいたが、期待の押し付けはお互いさまだったのだ。
私は常に相手を好きでいることが「愛」だと思い込んでいた。だから、母や子供たちに否定的な感情が湧くと不安になった。「親子なのに」と自己嫌悪に陥った。だが、親子であれ、好きになれないこともある。そういう感情を全部ひっくるめて、互いを「ひとりの人間」として尊重できるのなら、それはきっと愛なのだ。
会って、話すこと。――自分のことはしゃべらない。相手のことも聞き出さない。人生が変わるシンプルな会話術と親になってもわからない 深爪な子育てのはなし (eロマンス新書)はスタバでにやにやしながらサラッと読めた。
こういうカフェタイムに気軽に読めるエッセイぽい本もいいね!!
私は皮肉たっぷりのユーモアが好きなんだな、と再確認(笑)「皮肉」って遠回しに意地悪なこというやつじゃなくて、枕詞と掛詞みたいにキーワードを重ねてニヤッてできるやつのことね。
それから今日の朝読み終わった小説。
わたしが求めているのは、よく死ぬことではない。重い闇をかかえて、それでもなお歓びにあふれて生きる道だ
Amor Fatiだね!
そんでもって、かの時代のお念仏がやろうとしてるのが「全託の祈り」なんでないかなって、思ったの。
「艱難、汝を玉にす」
逆境は成長の糧・・・とはいえ、深刻な問題やほんまにしんどいときに、どうやったらそんな「覚悟」を定めることができるのか。
それで最後に述べられる技法が、祈り。
ただし!!一般的に思い浮かべられる「願望の祈り」とは違う。自分の望みが叶う事を天に求める祈りは、やっぱり「双極的な性質」のせいで表面的にポジティブな意識でいても、無意識下ではネガティブな想念を生じてしまうわけで。
しかも無意識のほうが影響力は強い上に、他の人の似たような無意識まで共鳴してくっついてきちゃうと来たもんだ。
そうじゃなくて、全託の祈りをするんだよ。全部を委ねて、託す祈り。「〇〇できますように」とか「〇〇させてください」じゃなくて、ただシンプルに「導きたまえ」。ただ、それだけ。
これは、すごく深い。
ただ委ねる、なにがあっても全てを肯定する。なにがあっても、全てに深い意味があると受け止める。自分を信じて、世界を信じる。
それって・・・全肯定!癒しの呼吸!!星の型!!!
「自分には問題や欠損があって、そこをどうにか外部から補修せねばならぬ」
とか「相手には問題や欠損があって、そこをどうにか私が補修してあげねばならぬ」
ってエネルギーで人(や世界)と接すると、それを証明する現実しか見えなくなる。
「癒しの力」を取り戻し、「生命力」を震わせる【星の読書会】 - STAR SHIP☆星読み航海図
宇宙のチカラを信じるってことは、宇宙に含まれる自分のチカラを信じるってこと。自分の存在を肯定するってこと。この浄化力、癒しのチカラは、本当に大きい。
人生で起こること、すべて良きこと
ここでね、これを読む前にちらちら目にしていた親鸞聖人の「悪人正機」の思想がドドドーっと流れ込んできたの。あ、そうか、あれも「全肯定!仏の呼吸!ナマンダ~の型!!」だったのか。
たぶんね。
ニーチェの「永劫回帰」の思想も、そう。人生はしんどいし、グルグルグルグル繰り返す。それでもそれも全部受け入れて、「然り!」と肯定するのが「運命愛(Amor fati)」なんだ。
ネガティブでもポジティブでもない、究極のポジティブって、そういうこと。田坂せんせは「良い運気をつかまえて人生ハッピーハッピーにすごしましょう☆彡」とは言わない。「この法則であなたもハッピハッピーライフ♡」なんて言わない。
我々の人生においては、本来、
「良い運気」も「悪い運気」も無い。
最後にそう言い切っちゃってる。それが全肯定。
私にとって、占星術でホロスコープを読ませてもらうのは「全託の祈り」。それはフォトンワークであって、鎮魂でもある。全肯定!癒しの呼吸!星の型!なわけ。
悪人正機説の誤解、その思想の危うさが小説『親鸞』の後半でも取り上げられてた。私も、このへんは表現方法がむつかしいなぁ~って思う。
「必然」なのか「偶然」なのか、「運命」なのか「選択意志」なのか。その手のハナシは、いつもアヤウイ。自分が未来を(現実を)創りあげているのだ、って考え方は、自律して立派に聞こえるけど、一歩間違えれば傲慢な万能感になる。
他力本願ってのは、他人任せでどうこうって意味じゃなくて、「自力」に対する誤解とか思い上がりに対するカウンターパンチみたいな思想だと思うんだよね。他者任せ、開き直りとは、全く違う。もっと成熟した責任感の在り方なんじゃないかな。
アヤウイといえば、この界隈の「超自然的能力」や「見えない領域」のハナシはほんとにアヤウイ(笑)私の基本スタンスは、「怪力乱神を語らず」「仏に逢うては仏を殺せ」なんだな。いや、ご覧の通りオカルト(占星術)ブログなんだけども(笑)
見えないものを特別視するつもりはないし、科学と優劣を競うのも、科学で裏付けを取ろうとするのも、ナンセンスだと思ってる。統計とか引き合いに出されると、苦笑いしちゃう。
ここまでのシンクロの連発、タロットにしてもなんにしても、それは統計的に言えば「それはあくまで偶然です」ってことになる(笑)
そう、偶然!そこに意味なんて、ない。
偶然そのもの(できごと)に意味はない。
私の中に、意味がある。
意味を見つける、私がいる。
ただそれだけなんだよね◎
外側に必然性(理由、意味)がある!と思うと、おうおうにして衝突する。起こってしかるべきこと、そうでないこと(悪しきこと)が生まれるからね。なんでこんな目に、とか、それはあっちゃならんことだ、って。
意味(正当性)の押し付け合いは、かんべん!
そもそも、「どうしてこんな目に」とか「生まれてきた理由、使命はなんなんでしょう」ってのは小さな小さな因果論の中でしか自分自身と出来事を見てないわけで。そのちっちゃい視野を広げようってのがオカルトのおもしろさだと思うの。
そうそう、因果律(原因→結果と直線的に捉えられる、因果関係で理解する世界)の外側にある層。
私たちが「わかる」レベルってのは、因果律レベルの層と、その内部に展開しているもっと内側の層だけ!知識としてはその外側の層も「存在を知る」ことはできるだろうけど、たぶん、「現実として把握する」ことは出来ないんだと思う。
だから「占い」は、内側しか見えてないワレワレが外側のルールに触れるためのひとつの手段なんじゃないかね、って思うのよ。
星に学ぶワークショップシリーズは、そういう世界を見つめる視点のピントをずらしてみたら、どう見える?って企画。再来週は月編!!
月の領域を「セルフケア」するための実践方法がメインテーマなんだけど、今私的にホット(笑)な『暦』についてのハナシも入れてみようかな( ´艸`)これもまたセルフケアに役立つんだから。
⇩目には目を、ボケにはボケを、ドリブルパス
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