※最近はずいぶん楽しくてゴリゴリ記事が書き溜まってるので、「予約投稿」にしてわざと間隔を開けて更新されるようにしてます。なのでこの記事も、時間差でオープンになる予定。
依存と自立と孤立
プレゼント交換でいただいた本、依頼者さんに感謝の金粉を送りながら(笑)大切に読んでおります!(きっと金粉効果でいいことあるよ!笑)
臨床心理学者の河合隼雄せんせの、『対話する人間』は最初「母性」と「父性」というふたつの役割と、その変化から始まって、それから今は親子のハナシのところを読んでます。
蟹座と山羊座をネタに、4ハウス10ハウスラインにあるエネルギーバランスってテーマでひとつ記事がかけそうだ・・・!と思いながらアウトプットできてないのは、次から次に別のネタが思い浮かぶくらいオモシロイから。
で、あれもこれも書きたくなるのを抑えてひとつ。
最近の心理学は自立と依存とを反対概念として捉えるのではなく、両者の共存ということを大切に考え始めている。適切に依存し、依存の自覚と感謝のある人こそ自立していると考える。ただやたらに他と離れるのは、孤立であって自立ではない。
「最近」って言っても2001年の本だから、時の流れで言えば結構昔の「最近」。それでもどうだろう?心のプロフェッショナル達の考えが改まってきたからと言って、世間一般のみんなの心ってやつはそう簡単に軌道修正できるもんじゃないから。
人間関係に限らず、すべての関係性の中で「依存」と「自立」と「孤立」ってポジションはある。例えば病気とか健康状態、免疫も身体と環境の関係性。
この依存と自立のハナシ、2010年に書き残したふる~い日記ブログでも書いてた。この考え方に出会って、「なるほどぉ!!」と感じたんだ、若きし頃の(笑)私。
バイト先の本の修理中に中をパラパラ見たら面白かったから読んでみた。
(仕事?ちゃんとしてるよ)
河井隼雄も前から興味あったし、1章数ページのエッセイみたいな内容で読みやすい。
★「自立」と「依存」は反対、ではない
人は大なり小なり誰か(何か)に依存して生きてる。
本当に自立してる人って、自分が何に依存しているのか
自覚して、受け入れて、感謝できる人。
「自立」しようとやっきになって「依存」を排除していくと、「孤立」してしまう。
昔、早く自立しようとやっきになった私は、家族と離れて友人と距離を置いて
「孤立」してしまった典型的なパターンか
心の深いところでは家族(友人)に依存していたんだなー。わかる。
赤ちゃんもね、ちゃんと自立するためにはまず「安全基地」が必要。
依存の上に自立が成り立つんです。
自立しようと必死になっていたあの頃より、今の方が家族とよく話したり
手紙とか贈りものとか、やりとりしたりする。お互いに個として尊重し合えるから。
人生には、対立しているように見えて実は共存しているものが案外多い。
必死になって排除しようとしていたものに目を向けてみると、価値を見出せたりする。
その発見によって人生に厚みがでるんじゃないか。
★灯を消す方が、よく見えることがある
「語りえぬものは沈黙せよ」ウィトゲンシュタインのフレーズを思い出す。
★心の支えは、心の重荷にもなる
身にしみて。
★道草をするから、道に味が出る
身にしみて。
―こころの処方箋(新潮文庫)を読んで
占星術で言えば「依存」や「安全基地」は月で、自立は「太陽」。月を切り離して太陽のチカラを押し出そうとしても、その結果はシアワセとは言いにくい。
↓の過去記事で用いた言い方をすれば、ドーパミン優位の、セロトニン不足状態になる、ってこと。
それでね、先日お届けした【宇宙からのギフトを読み解くプロジェクト】でも仕事と遊びっていう関係性も、対立構造ではない捉え方ができるのでは?ってメッセージが出てて。
対話する人間 (講談社+α文庫)では人間関係のことを言ってるんだけど、この「依存」「自立」「孤立」のカテゴリー感覚ってのは、身体と環境の関係然り、ここにも応用できるんじゃないか、って思ったわけ。
関係性を成り立たせるための前提を問う
それで今度はこっちの本を開いてみると、内田樹先生は「理解と共感の上に人間関係を基礎づけることのリスク」について書いている。これは「日本の常識」やムードからしたらビックリしちゃう視点。
他人を理解しようと努めることは悪いことじゃないよ、としたうえで理解や共感に「過剰な価値を」つけちゃってるから、いろんな問題とか息苦しさとかの原因になってるんじゃん、ってハナシ。
家庭が地獄になるのは、親が子どものことを理解していると思いこんで、事細やかにコントロールしようとするときと、子どもが親に対して「オレのことをもっとわかってくれよ!」という無体な要求をするときです。
いずれも家庭はメンバー同士の相互理解と共感の上に築かれるべきだという信憑がもたらすトラブルです。
この親の視点は河合せんせの本で
われわれは何かを愛するかぎり、それを「占有」したくなってくるものだ。われわれは自分が占有したものの自由は認めたくない。
って書いてあった部分だな。ニンゲン、そんな生き物なんです(笑)ってことは、簡単に地獄になりうる(笑)
でもね、「そもそも他者同士(家族だって自分じゃなくて他人です)が理解しあえるってことはかなりハードな案件なの」っていう前提に立てば、その上でお互い歩み寄ろうとできるでしょ。自分たちなりの関係性を築けるでしょ、ってこと。
コミュニケーション論はやっぱり平田オリザさん!!
異なる価値観と出くわしたときに、物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず、粘り強く共有できる部分を見つけ出していくこと。
ただそれは、単に教え込めばいいということではなく、おそらく、そうした対話を繰り返すことで出会える喜びも、伝えていかなければならないだろう。
意見が変わることは恥ずかしいことではない。いや、そこには、新しい発見や出会いの喜びさえある。その小さな喜びの体験を、少しずつ子どもたちに味あわせていく以外に、対話の基礎体力を身につける道はない。
これは教育、特にグローバル社会の中で必要なコミュニケーション能力をどう身につけるか、ってハナシなんだけど・・・ニンゲン、「目の前のこの人」すら言ってみれば異文化のカタマリだからね。(笑)
意見が全く合わないとき、わかりあえないときに、「この人は次元が低いから」とか「価値観が違うから」と放棄するのは「わかりあえてこそ、理解しあえて共感しあえるからコミュニケーションが成立する」という思い込みがあるから。
もちろんわからないままでケッコウ!って人とは関係性なんて無理して作らんでもヨイけども。
親しい人間関係をつくりあげていくとき、「あなたのことをもっと知りたい」って言うでしょ。わからないからことに魅力を感じてる。相手を完全に理解して、共感できたから恋に落ちた、ってわけじゃない。「あなたのこと、よ~くわかったわ」ってのはむしろ関係性に終わりを告げる時に口に出る言葉です。
…って、内田せんせが書いててね。
こりゃオモシロイなぁあ~~~!!!って思ったの(笑)
共感能力と他人に対する愛・優しさ
ちなみに私自身は、「共感」がひっじょーーーーーーに苦手で。「うんうん、わかるわかるー!!」っていう女の子の良好な人間関係にマストなスキルが欠けてるの。これ、私のコンプレックス。
「いや、その気持ち全くわからん」とは言わんけども。「ふ~ん」とか「あ~」とか「なるほどぉ」って曖昧~にニコニコしちゃう。気が弱いから(笑)あ、でも「なるほど」を多用しすぎて「なんでそんなに偉そうなの」って友達に怒られたことあるっけ。(笑)
その時初めて自分がエラソウなやつだってことを知ってむちゃくちゃビックリした!!!(笑)言われてみれば、そうだな!!私ってエラソウだ。(笑)全くそのつもりが無くても(もちろん相手のことを見下したり蔑ろにしてるつもりは全くない)生意気に見えちゃうらしい。
それで思わぬ誤解を受けてトラブルにあったことが、思い返してみれば何度かあった。筋肉ゴリラに見えて豆腐メンタルな私は、結構凹んでても気付いてもらえない(笑)
それ以後、多少意識してエラソウにならんようにしてるけど、効果が出てるのかは不明。誰かに指摘してもらえないとわからないもんだよね。
そういえば
共感能力が低い=他人に不親切、冷たい
共感能力が高い=優しい、愛情深い
って考え方は、どうなの?共感は出来ないとしても、それを自分自身がちゃんと分かってる上で、相手のことを考えて愛情と思いやりを持って接している人いるよ。岡田センセとか、悩み相談のハナシを聞いてるとすごく優しいし、ふところが大きいなぁって思う。
共感能力が高い人はいっぱいいるし、愛情深い人優しい人もたくさんいるんだけど、「自分の快・不快しか考えていない、共感能力の高い人」もめちゃんこ多い。だからアカンとかキライとか言いたいわけじゃないけど、ふと思っただけ。
スピリチュアルの殿堂(?)シュタイナー博士はタマシイの成長をものすんごく深くケンキューして世に知らしめた人なんだけど、彼は「快不快を追い求めるべきではない」言うてることを思い出したよ。
そういえば、満月図のトキ読みしたよ!
「風の時代だからこそ水エレメントを意識しよう」ってちょいちょい見かけるけど、そうかそれなら水エレメントの「前提」を構築し直すべきだと私は思うね。共感の強要は不要、むしろヨロシクナイと思うから。
ちょうど最近知ったハンナ・アーレントって人の「全体主義に対する考え方」を知ったの。全体主義と言えばヒトラーが有名なんだけど・・・ハンナは彼女自身がドイツからアメリカに亡命して生き延びたユダヤ人なのね。
「ホロコーストっていうおぞましい歴史をつくったのは、悪のトップにあたる人物じゃなくて、ワレワレ大衆だ」って考えたの。そりゃもうこんな思想、大バッシングの炎上騒ぎよ。ユダヤ人は絶対的被害者でしょ、悪は悪でしょって。
でも、ハンナはこう考えた。
現実の不安や緊張が高まって、それに耐えられなくと、人々は分かりやすいイデオロギーに走る。それが全体主義を引き起こす。
これ、全く他人事じゃないよ。パンデミックもそうでしょ。
分かりやすい対立構造、分かりやすい思想、分かりやすい方針を示してくれれば、目を輝かせてそれに乗るんだよ、ニンゲンってやつは。
そんでもって
物事を簡単に断定する人間は、ちょっとしたきっかけで、まったく逆の立場にひっくり返る ―SOSの猿 (中公文庫)
だから分かりやすさってやつを、私は気を付けたいと思ってる。ストンと腑に落ちることに重きを置きすぎないようにしている。
「分かりやすさ」の危険性、って最近よく感じる。
もし私が誰かをコントロールしようと思うなら、絶対に分かりやすい道筋を作って、その人を「分かった気」にさせる。
自分で考えることを放棄しちゃいけない。苦しくても、めんどくさくても、その「どういうこと??」ってところから動く過程が「答えを知る」ことよりむっちゃくちゃダイジなんじゃないか・・・って思う。
スルスルと「分かって」しまう(分かった気になっている)とき、次のステージに「動いて」いるように感じるけど、自分は動いちゃいないんだってこともある。動かされているだけ。
善か悪か?上か下か?〇か✕か?合ってるのか間違ってるのか?
進むべき方向はこれで「正しい」のか?どっちに行けばいいのか?
現実の不安や緊張が高まって、それに耐えられなくと、人々は分かりやすいイデオロギーに走る。それが「全体主義」を引き起こす。
全体主義ってのは蟹座の暴走ですな。共感、理解を強要する。そうでないやつは排除する。いわゆる「悪」ってやつは、特別な普通ではない悪いヤツラが引き起こすと思われてるけど、その実「ふつーの人々」が起こしてるんだよ、って。
蟹座の支配星、月は一般大衆。
月の弱点は、無批判に受け入れること。
わかりあうことが優しさ(愛)とは、私は思えない。
だからと言って「孤立」や「分離」を求めているわけでもない。