「役に立たねばならぬ」という呪い

 ホモ・ルーデンス(あそぶヒト)でありたい

 

自分がそれをしたい、と思うからする。

それ自体が楽しいから、する。

やめよう、と思ったらやめられる。

遊びってのは、特設の「舞台」みたいなもの。

それも、どうなるか結末が全く決まっていない、即興劇の舞台。

 

私にとっては人生そのものが特設舞台なわけで

それをめいっぱい遊びたいなって思うの。

 

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〈 遊びの定義 〉

▶ 手段ではなく目的

遊びは何かメリットを求めた手段ではなく、それ自体が目的で、遊ぶために遊ぶから遊びなんだってこと。

▶ 始めるのも終わるのも本人の意志(自発性)

誰かに強制されるものじゃなく、やりたいと思うからやって、やめたいと思うときにやめる自由がある。

▶ 時間と空間から切り離されている(非現実性)

遊びの世界ってのは、ある意味パラレルワールド

▶ 結果が決まっていない(不確実性)

予定調和的な結果に向かうだけだったら、遊びじゃない。

▶ ルールがある(構造がある、制限の中での自由)

遊びは自由を楽しむのと同時に、ルール(制限)を楽しむこと。

 

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私個人の場合は、だけど・・・

縁がつながったり、人生が大きく展開したのは

いつも「遊び」の世界からだった。

 

人は自由であるときに、宿命を見出す
自由に生きれば生きるほど、運命は紡がれる

 

僕たちの居場所論 (角川新書)

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頑張ろうと思うと、強制終了♇💣が入ることすらある(笑)

ありがたいことに、肉体的・精神的な危機って形で

シャットダウンは今のところないんだけど。

もし重要なメッセージを受け取れないままだったら、

そういう方向で気付きを促されるってこともあるだろうけど。

 

でも、難しい局面に遭遇して「この道ちゃうねんや」と

顔を背けるんじゃないよ。

実際、プロジェクトは取り掛かるたびに

「このタイミングでそれ、起こります?」って面倒な事件

が起こるのも恒例になりつつあるし。

 

そういうのは、工夫のしどころといいますか。

どっからどこまで自分のチカラ(コントロールできる)範囲なのか

どっから先は自分の意志で(◯◯のせいで、ではなく)自分以外の

世界にお任せサレンダーの姿勢でいるべきなのか。

その境界線の調整を、常に求められるからだと思うんだよね。

ダイジなことほど。

ほんまにほんまにダイジなことほど。

 

 

それこそ、ニーバーの祈り。祈りのまなざし。

変えることができないものを静かに受け止めるチカラを

変えるべきものを変える勇気を

そして変えられるものと変えられないものを見分ける賢さを

― ニーバーの祈り

 

クズでいいじゃない

だからね、美意識を持って「クズ」でいたいと思うんだよね(笑)

 

祈りを生きる、なんて言うと聖職者のようなイメージがあるかもしれないけど、まるで逆だで。

最近言ってる、「非生産的な活動に全力を注ぐ人生にする」ってのはまさにそれだと思うんだ。

 

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そんなクズ的視点で、占星術はとっても楽しい遊びなんだよね。

 

占星術が)ツールだとしたら・・・

あまりに非力。あまりに不毛。

ほんまに助けてほしいときに、助けてあげたいときに、何の力にもなりゃしない。生老病死、ニンゲンの苦しみを「ごまかす」以上のことはなんもできやせんじゃないか。

 

そんでもって、私だって、苦しみをごまかすお役立ち「ツール」に期待してた一人じゃないか。そーゆーことに気付いて、なかなかに衝撃的な心持ちでございました。

 

このブログは占星術好きな人、学んでいる人、実際に占い師さんしてる人が多いから、ムッとされちゃうかもしれない。

 

でも私、占星術好きよ。

占星術を否定してるワケじゃないのでね。

 

ほんまに非力で、不毛で、ナンセンス。

その前提があるからこそ、そこから学べることは計り知れないって思うの。

 

どーにもならんこと、チカラの及ばんことを認めること。

それも学ぼうぜ。1枚ずつ皮をむきながら。

 

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役に立たなくてもいーじゃない。

だって、プロジェクトに提供している「物語」なんて、まさに。なんのアドバイスも教訓も、あなたはこういう性格です、才能です、あなたの未来はこうなります…なんてこと一切言わないんだから。ただ、物語を楽しんでもらうための、一緒に楽しむためのプロジェクトなんだから。

 

スタート地点は別に役に立とうとしてないんだけど、結果的にたくさんのたくさんの「何かが動く」ことはしょっちゅう目撃してて。

今でもふとしたおりに過去にプロジェクトに参加してくれた方からありがとうのメッセージがきて、物語のサイドストーリーやアナザーストーリー、続編をシェアしてもらえる。

それはすんごく嬉しい。顔がゆるみっぱなしになるくらい、嬉しい。

 

ただ気をつけようと思うのは、(私の場合)

じゃあこれを「お役立ち」を目的としたサービス、にしよう、と

しないこと。それは私自身の美学の問題。

このプロジェクトに限ってはね。

 

相変わらずいただいた参加費は、ほぼKindleの本に変換されて

(たいていプラスアルファで参考文献が出てくるから身銭を切って 笑)

次のプロジェクト参加者のギフトに繋がってるんだよ!

驚きのシンクロもちょいちょい生まれる。

 

呪いの背景

さてそんな参考文献のなかで、いつかブログでも紹介しようと

言いつつできずじまいでいた、この本↓

第4章 社会の役に立つことを強要される

 

きっと、そうとは意識せずに現代人にはこの価値観がしみついてるんだろうなぁ、と。

いつのまにやら「ものの価値」だけじゃなく「その人の価値」までも、経済的に役に立つかどうか、生産性があるかどうかって基準になってしまってる。

 

その価値は、組織とか国家による他者との比較、品定めされることで決まる。

組織も国家も、よくよく考えたら存在しない(実体がない)ものなのにね。スイミーたちが集まって大きな魚になった、あれみたいな。実際に大きな魚がいるわけじゃない。

 

Swimy

 

『ミラベルと魔法の家』で、ギフトがそうであったように

才能や資質(ギフト)を、それを社会の役に立てることで居場所を守ろうとしてきたマドリガル家。ギフトがないミラベルは、価値がない存在のような扱いを受けてた。

 

ギフトを持つ家族のメンバーも、

「祝福」のはずのギフトが「呪い」になる。

 

「ギフト」はそこに囚われると呪いになる。

自分の価値を「ギフト」に見出そうとする危うさを感じたよ。

「ギフト」ってのは、何も魔法的なチカラだけじゃないよ。自分の能力や得意なこと、成功体験、周囲の評価や好意の対象、そして「使命」と呼ばれるナニか・・・。

 

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I glow 'cause I know what my worth is

(私は私の何に価値があるのか分かってる、だから輝ける)

 

だってそれが私のギフトだから

自分が家族や地域のために貢献できる能力。

みんなそれを期待しているし、私もそれに応えたい。

だってそれは私にしかできないことなんだから。

 

I'm pretty sure I'm worthless if I can't be of service

(その役割を果たせなければ、私は無価値なんだ)

 

自分を輝かせる価値、特別な能力、ギフト。

 

それが気がついたら、「自分の価値を決めるもの」になっていて、じわりじわりとプレッシャーになっていく。弱音をはいたら、失敗したら、自分が折れてしまったら・・・表面(surface)には出せない恐怖。

 

もちろん、自分のもつものを自分だけのために隠し持って、出し惜しみしろってことじゃなく。全くなく。社会に還元するフェーズってのがくるから。

 

それが成熟する、大人になるってことだから。

 

子どもの視点ってのは I should(~しなければならない)I'd like to(~したい)なんだ、ってハナシ。でね、オトナは違うの。I can(~できる)と、呼びかけに応えるのがオトナなんだ。

 

太陽の主体性は、社会とのかかわりの中に自分の立ち位置を自分から主張しているってこと。社会や他者に何か足りないものや欠けている部分があって、そこに応答する。

 

最初からその役割が出来ていなくてもいい。その場に応じて、役割を演じることから始まる。結果的にその役割の中で葛藤を経て、成熟してオトナになる

 

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しかしだね

「役に立ちたい、解決者になりたい」の落とし穴をちゃんと自覚しておきたいのだよ。

 

「自分には問題や欠損があって、そこをどうにか外部から補修せねばならぬ」とか「相手には問題や欠損があって、そこをどうにか私が補修してあげねばならぬ」ってエネルギーで人(や世界)と接すると、それを証明する現実しか見えなくなる。

 

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それは相手からエネルギーを奪う行為にもなりうる。

役に立つ私、解決者の私、という自分の価値を得るために相手を貶める行為にもなりうる。

 

それに、自分の価値を自分の外側の条件に依存するのは、脆い。

それって簡単に崩れやすい。落ち込みやすくなっちゃうっていうのかな。

 

エネルギーは奪い合うもんじゃなく、一緒に回して発電するもんでありたいな。

 

 

私のプロジェクトは、私も魂が震える癒やしを感じさせてもらってるけど

それは結果的にそうなるだけであって、そこを目的にはしたくない。

 

 

自分が癒やされたいがために、人を癒やす(癒やしを必要とする状態にはめ込む)人の多さよ。

それがイケナイことだとは思わないけど、無自覚であってほしくない。

無自覚でなければ全然ええねんけど。

「私は救ける側の人間(あなたは助けられる側の人間)」を無自覚に押し付けてくるのは、ある種のエネルギーバンパイア。

 

これね〜

隠れ蓑は親切だけじゃないのよね。

私が長男の駄目なとこばっかり見えてぷんすかぷんすかしてるのも、

こういう構造が見え隠れ…

これはまた別の構造がメインに絡んでるんだけど。

 

「もったいない」のはなぜか

昔からよく言われる。

これは遠回しに「しっかりしなさい」と言われてるのか、褒め言葉として言われてるのか(笑)

 

昔オジサンたちによく言われた枕詞は「若いのに」「ちゃんとした(?)大学出たのに」もったいない、だった。

最近はステータスじゃなく、スキルに対して「もったいない」のお言葉をいただくことが多い。

 

 

もったいないってことは、「活かせてない」ってこと。

使うべき資源を使うべき場面で活用していないってこと、もしくは無駄遣いしてる。

 

その使うべき場面ってのは、オジサンたちからもらうもったいないが指すのはやっぱり

「経済的にプラスになる」かどうか、「生産性がある」かどうか。

 

一方でお姉様方に指摘されるのは

「多くの人の目に触れる、自分の存在(価値)を知らしめられる」かどうか「広くイイネをもらえる(他者の称賛、高評価をもらえる)か」どうか。

それができてないと、もったいないのだ。

 

一昔前の私は、そう言われる度に「確かに私もなにかしら働かないといけないだろうか…」「収益化の方法を学ぶべきだろうか」とションボリひたり、逆に「よけーなおせわ!」と跳ねっ返ったりしてたけど

 

その頃はやっぱり、自分でも「自分の価値は社会の役に立つか否か」と思うところがあったんでしょうな。

 

結局「もったいない」ってのはその人の価値に照らし合わせて、私の使い道を評価してるだけだから

別にそれを気にしなくてもいいんだな、今は思ってる。

 

役に立つことで自分の価値を確かめて安心しようとは思ってないし。

社会への還元の仕方は、自分ができることをできる範囲でやりながら広げていけばいいと思う。

知名度や活動の規模を広げること、成功することを目指すつもりもない。

 

今のところは。

 

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